「わたしに従う者」
説教要旨( 7月 12日 朝礼拝)
出エジプト記 第13章 20~22節
ヨハネによる福音書 第8章 12~20節
伊藤英志
「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。仮庵祭の余韻が残る神殿で主イエスが人々に告げています。
仮庵祭の期間中、神殿の中庭の四隅には大きな松明が焚かれます。立ち上る煙と夜空を照らす火で、巡礼に訪れる人々を神殿へと導いていました。その煙と火は、出エジプト記にあるように、イスラエルの民がエジプトを出発して約束の地に向って旅立った時に、雲の柱と火の柱でもって、主が民に先立って進まれたことを覚えるためです。
「わたしは世の光である」。その松明が焚かれていた場所で主イエスが告げます。仮庵祭で人々が覚えるべきかつての出来事を超えた、真の救いの到来がここで告げられています。人々が来るべき日に仰ぎ見ることになるのは、神殿から空に向って立ち上る煙でも、夜空を照らす松明の火でもなくなります。
それをまだ知らないファリサイ派の人々が主イエスに論争を挑んできます。主イエスがお語りになっていることが真実ではないと主張します。彼らを納得させるには二人以上の権威ある者たちよる証言が必要でした。そうした言動は、主イエスが誰であるかについて「肉に従って(15節)」裁きを下そうとする姿になっています。
肉に従っているとは、神の掟と神の戒めに従っておらず、神を信じているその自分を信じている姿です。神ではないものに従ってそれを信じている姿です。そのような人々の内には命の光がありません。神による裁きの座に喜びと感謝とをもって立つことができない者たちとなるのが肉に従う者たちです。
しかし、主イエスはこの時点で、だれをも裁こうとはしていません(15節)。なぜなら、主イエスがこれからエルサレムでお示しになる真実なる救いの時がまだ来ていなかった(20節)からです。主イエスが裁く時―来るべき終末の裁きが、天の父と共になされる真実なる裁きとなることを告げています。
天の父が共になしてくださる主イエスについての真実なる証しとは、主イエスの十字架と復活です。肉に従って暗闇の中を歩き通そうとする民を救い出す決断が下され、民を照らし出す光が到来した。さらに主の日の裁きの座をも照らし出す真の救いの光がこの世に到来した。それが、十字架と復活によって示されることになる神による真実なる証しです。
世を照らす光は、ただ真実を照らし出します。神の真実と人間の真実を明らかにします。主イエスは、肉に従っていて暗闇の中で自分の姿を見ることができないまま歩いている人間の、真実なる姿を照らし出す光なのです。
肉に従ってきた人々がこの光と出会う時、その人は自分の真実なる姿―自らの実体がさらけ出されてしまいます。しかし、それは失望と落胆の時ではありません。自分の真実なる姿が明らかにされる時こそ、新しい出発の時となるからです。姦淫の現場で捕えられながらも、罪に定められることなく、朝の光の中を神殿から一人歩み出した女―命に向かって歩み出した女にも示されている通りです。
主イエスに従う者とは、この光を受け入れる者です。たとえ自分自身が暗闇の中にいるとしても、光があることを信じ、光に照らされることを喜ぶ者となります。
かつてエジプトを脱出して、スコト(小屋)から旅立って荒れ野に向かったイスラエルの民は、エタム(城壁)に宿営し、約束の地を目指した旅路へと歩み出しました。主なる神は、昼は雲の柱―雲に乗って再び世にきてくださる主イエスが共にいてくださるしるし―でもって民を導き、夜は火の柱―聖霊―でもって民を照らし、民に先立って進まれました。小さな家から始まり今日を迎えた富士見町教会の歩みも、主が民の先頭を離れることがなかった歩みであったはずです。
私たちをも照らす主イエスの光が、喜びと感謝に満ちた永遠の主の日をも照らし出しています。私たちも、この救いの時を堅く待ち望む者となる―主イエスに従う者たち、命の光を持つ者たちとなりたいのです。

