「悲しみと痛みの中から」
説教要旨( 7月 19日 朝礼拝)
創世記 第17章 1~6節
ローマの信徒への手紙 第9章 1~5節
倉橋康夫
パウロは、第8章までで、一通り福音について語り終えた、と言えます。神は、ご自分の計画に従って救いのみ業を進められ、遂にみ子の十字架の死と復活という出来事に至り、その出来事によって、自分たちは救われた、神の愛に堅く結ばれていることを確信できる、と熱っぽく語りました。しかしパウロは、それならば、神の救いのみ業のために選ばれ、用いられたユダヤ人たちの救いはどうなるのか、を次に問わないわけにいかないのです。使徒言行録には、パウロがユダヤ人の会堂で福音を宣べ伝えようとしては、追い出されてしまったことが記されています。(第9章19b~25節、第13章50節参照。)ユダヤ人こそ真っ先に神の救いに与るのが当然なのに、彼らの多くは、主キリストの福音を頑なに拒否するのです。この事実に、パウロは深く悲しみ、絶え間ない痛みを感じておりました。
そこでパウロは、<わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。>と言い、続けて、<わたしの良心も聖霊によって証し>する、と言います。「良心」とは、「共に見る」を語源とします。神と共に見る、神と同じ観点から見る、ということです。また、そこには「聖霊の証し」もあると言います。そこで、明らかにされるのは、「悲しみは大きく、心に絶え間ない痛みがある」、ということです。それは、このパウロの切実な思いが真実であることを、聖霊が保証すると同時に、これは単にパウロの個人的なものではなく、聖霊も共にうめく思いなのだ、ということです。ここに、パウロの同胞の救いのための祈り、聖霊もまた共にうめいて下さるような切実な思いが表されています。
パウロは、自分の同胞について、<彼らはイスラエルの民です>(4節)と言います。民族としてのユダヤ人ではなく、信仰の民を表す「イスラエル」と呼ぶのです。神を愛し、神に愛される民です。そこで、このイスラエルに神が祝福のしるしとして与えられた数々のことが並べられます。<神の子としての身分>、<栄光>、<契約>、<律法>、<礼拝>、<約束>、<先祖たち>、と。これらの祝福のしるしは、神がアブラハムに与えられた、一方的な祝福の約束に始まっている、と言うことができます(創世記 第12章参照)。併せて読んだ、創世記 第17章1節以下で、主なる神は<わたしの契約>を立てる、と繰り返されます。神からの一方的な約束です。この約束は、イスラエルの歴史の中で、確認されつつ保存され、遂に主キリストにおいて実現することになったのです。
このことを、パウロは、<肉によればキリストも彼らから出られた>、この系図からお生れになった、と言う。「肉によれば、イエスもユダヤ人」となるべきところを、救い主・メシアを意味する<キリスト>という呼び名を用います。この系図から、救い主がお生まれになった。このキリストは、全世界の救い主なのだ、と言うのです。この神の壮大なご計画の中心に置かれたイスラエルの民なのに、主キリストを拒み、その福音を受け入れようとしない。パウロの悲しみと痛みはこの点にありました。救いを拒む同胞が、イスラエルとして選ばれた民であることが、パウロの悲しみと痛みを一層深刻なものとしていたのです。
ところが、パウロは深刻な「悲しみと痛みの中から」、突如として、主キリストを讃美します。<キリストは,万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。>、と。現状がどうであれ、帰着すべきところは、ここ以外にないからです。主キリストを讃美すること、み子をお遣わし下さった神を讃美すること、ここから全てが打開されます。「悲しみと痛み」の中にありつつ、しかしそこから、私たちは神を褒め讃えるのです。パウロは突如としてこの思いに捕らえられたのでした。

