「神の言葉は貫かれる」
説教要旨( 7月26日 朝礼拝 )
創世記 第17章15~22節
ローマの信徒への手紙 第 9章 6~13節
倉橋康夫
パウロは、前段で、同胞であるユダヤ人が救われるためなら、自分はどうなってもかまわない、と思い切ったことを言いました。けれども、事態は深刻で、ユダヤ人の多くは、パウロに敵対し、福音を受け入れようとしないのが現実なのです。これは、神が彼らに与えた祝福の約束が、効力を失ってしまった、無効となった、ということか。神の祝福の約束が空約束だった、という恐ろしい囁きが聞こえます。これは、パウロの抑え切れない疑問だったのかも知れません。パウロにとって、納得のいかない、説明のつかない事態のように思えたのです。しかし、パウロは、そのような囁きに抗して立ち向かいます。
ヘブライ人への手紙 第11章1節に、<信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。>、と述べられています。<望んでいる事柄>とは、私たち人間の勝手な願望のことではなく、神が与えて下さった希望のことです。また、<見えない事実を確認する>とは、目に見える現象に振り回されるのではなく、神のご計画という事実に目を向ける、ということです。私たちキリスト者の生活は、この神の救いのご計画を信じる歩みです。今の現実に納得できず、説明がつかなくても、神がご計画に沿って全てを進められ、その神の救いのご計画に自分も入れられている、と信じて生きる歩みなのです。
パウロもそのように考えるに至ります。だから、恐ろしい囁きに抗して、<神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。>、と言い切ります。神の言葉は無効にはならず、「神の言葉は貫かれる」。これは、論理的帰結としての結果なのではなく、ここから出発するのです。それでは、ここから出発して現実を見たら、どういうことになるのか。ユダヤ人が主キリストの福音を受け入れないという事実は、どういうことか。そこで、パウロは、<イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず>、と言います。「イスラエル」は、族長ヤコブの別名に由来します。(創世記 第28章13節以下参照) アブラハムと共に、ヤコブ(イスラエル)も神の祝福の約束を担う者でした。そして、<また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。>、と言います。民族的な観点から言うなら、アブラハムの子孫は皆、アブラハムの子孫です。しかしここでは、アブラハムの信仰を受け継ぐ<子供>と言えるか、という問題です。
ユダヤ人たちが、民族の誇りとする先祖は、アブラハム、イサク、ヤコブですが、イスラエル(ヤコブ)やアブラハムの子孫だからと言って、自動的に神の祝福の約束を受ける権利を持つわけではない、と言い、更にまとめて、<「イサクから生れる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」>、と結論づけます。これは、併せて読んだ創世記 第17章の神の約束の言葉に関係します。主なる神は、アブラハムの妻サラによって男の子を与えるとの約束をされました。<19 神は言われた。/「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。>、と。そして、その通りになったのです。
従って、<イサクから生れる者>とは、神の約束の言葉に沿って生れる子ども、という意味です。つまり、その背後には、神の約束・神のご計画がある、ということです。「神の言葉は貫かれる」 神の恵みのご計画は今も進められています。私たちは、その中に招き入れられております。それ故に、私たちの為し得ること、為すべきことは、この事実を告げ知らせること、福音を指し示すこと、証しを立てることです。神の示し、聖霊の導きに従って、共にこの歩みを進めて行きたいと思います。

