「神の憐れみによって」
説教要旨( 8月 2日 朝礼拝 )
マラキ書 第 1章 2~5節
ローマの信徒への手紙 第 9章14~18節
倉橋康夫
パウロは、前段の最後で引用したマラキ書の預言、<しかし、わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ>を受けて、<では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。>、との問いを置きます。誰もが当然そのような疑問を抱くであろう、と思ったからです。ヤコブとエサウの間に起こった出来事は、創世記 第25章に記されています。狩りから疲れ切って帰ったエサウが、<パンとレンズ豆>食べたさに、自分の長子の権利をヤコブに譲ってしまったのです。<こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。>、と記されています。人間的に見るならば、ヤコブは狡猾・計算高く、エサウを騙し、エサウは軽率で、その場のことしか考えず、ヤコブの計略に乗せられたのです。それなのに、神はヤコブを愛し、エサウを憎んだ、と預言者マラキは言うのです。
このような、納得のいかないことをする神の側に問題があるのではないか、と考える者を想定して、パウロは、<では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。>、と反問します。しかし、パウロは直ちにそれを否定します。<決してそうではない。>、と。義は、神の側にのみ妥当するのであって、それが否定されなければならない事態はあり得ない、と。人間が納得しようがしまいが、神の義は絶対的なものだ、と言うのです。
確かに、この世界には、神のご計画、神のご支配について、疑問を起こさせる事態が満ちています。争いが絶えず、不平等がはびこり、悲惨な事態が各地に起こっています。キリスト教会が、この悲惨の渦巻く世界のただ中で、何を語ることができるか、が問われます。
そこでパウロは、<神はモーセに「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」>と言われたこと(出 33 : 19c)を引用します。そして、<従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。>、と言い切るのです。神の為し給うことは、ただ憐れみによることだ、と。神のご支配、神のご計画は、神の憐れみによって進められていく、と言うのです。
神はみ旨のままに、ご計画を進められます。そこには、<人の意志や努力>が入り込む余地はないのです。人間と相談して、納得づくで事が進められるのではなく、全く神の主権の下に、神のご計画に従って、全てが導かれていきます。但し、その根底には、神の憐れみがある、と言うのです。悲惨の渦巻くこの世界のただ中で、キリスト教会が語り得る言葉が、ここにあります。つまり、主キリストの十字架の死と復活の出来事を信じるが故に、今も尚、世界は神の愛の下に、神の憐れみの下にあることを、キリスト教会は語り得るし、語り続けなければならないのです。私たちは、世界が救われる道、人間が根底から救いに入れられる道、それは主イエス・キリスト以外にないことを信じ、知っているのです。
更にパウロは、エジプト王ファラオについての主なる神の言葉を引用します。<「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」>、と。イスラエルの民がエジプトを去ることを許そうとしない、頑ななファラオに対して、真の主権者がご自分であり、ファラオさえ神の用いられる器に過ぎない、と言われるのです。パウロは、<神は御自分が・・・かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる>、と表現します。神は、ファラオを頑ななままに任せられるのです。この主なる神の主権の下に、私たち人間の歩みが導かれ、世界の歴史が刻まれます。しかも、その全体を包むものが、神の憐れみなのです。神の憐れみによって生かされている。これが、私たちの慰めであり、希望であり、そして、私たちの証しなのです。

