「真実なる裁き」
説教要旨( 8月 9日 朝礼拝)
詩編 第96編 10~13節
ヨハネによる福音書 第8章 21~30節
伊藤英志
「あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある」。仮庵祭が終わった神殿で、主イエスがファリサイ派の人々に告げています。
ファリサイ派の人々は、主イエスが語っている「世の光」、「父」についての証言が信用できるか論争を仕掛けてきます。その論争は自分たちの主張が正しいことを主イエスに呑ませて、屈服させようとしていた論争です。
そうした人々から、主イエスは去って行くことになると告げます。「わたしは去って行く。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21節)。「罪のうちに死ぬことになる」とは、老齢となって生涯を閉じることではなく、死刑判決という裁きが下されて死ぬということです。死を招くことになる罪とは、神を信じている自分こそが正しいと考え、その自分の正しさを信じていることです。
この罪を認めようとしない者は、「わたしはある」と言われる主イエスの教えが理解できずに、「あなたは、いったい、どなたですか」(25節)と問うしかありません。それが裁きの時を迎えた時に、主張し続ける唯一の言葉となります。そこには喜びも光もありません。
神殿で「父」について語る主イエスが誰であるのかは、このお方を受け入れずに死刑判決を下し、十字架に上げたときに、初めて分かることになります(28節)。主イエスを十字架につけた人々は皆、自分の判断や主張の正さを信じ続けていました。自分を信じて、神を屈服させようとし、神の上に立とうとしていました。自分の考える正しさを貫き通したいゆえに、神を疑い、神を憎み、神を裁こうとしていた。そうした世に属する人々による裁きを受けて、主イエスは十字架に上げられ、死んだのです。
しかし、その裁きは力なき裁きとなります。主イエスと共にいて、主イエスをひとりにさせなかった天の父は、主イエスを墓から復活させます。主イエスに下された死刑判決という裁きは、完全に力を失い、敗北します。
その時以来、この世は、真実なる裁きを行うお方―復活の主イエス・キリストが、生ける者と死ねる者とを裁くことになる時を待つ存在となりました。それが、天の父が、御子を通してこの世にお示しになった真の恵みと真理です。この恵みと真理が、世を照らす光であり、この世に属する人間の罪ある姿を明らかにしているのです。
旧約聖書には、罪に満ちた人間の歩みに下され続けた神の恐るべき裁きの出来事が記されています。しかし、イスラエルの民は、神の裁きが恐るべきものであっても、その裁きの先にある希望を示されてきました。詩編にあるように、真実なる裁きを下すお方が君臨する時は、天と地にあるもの全てにとって大いなる喜びと大いなる祝いの時となります。
そのお方は、まず神殿に現れてくださいます。真実なる裁きを下すお方が、すでに世に来られ、エルサレムの神殿に来て「わたしはある」と世に向ってお語りになっている。主イエスに論争を挑んだ人々は、そのことに全く気付いていません。それが、仮庵祭で主の恵み深きを心に留めたはずの人々の姿でした。その姿は、約束の地を目指していた荒れ野の旅路で、主の言葉に聞き従うことができなかったかつての民と同じありさまです。
主イエスは、神を信じていると考えている人間の信仰が、いかに定かでなく、いかに崩れやすいかを伝えようとしています。
信仰に生きるとは、真実なる裁きをくだす主を畏れることに他なりません。信仰をもって生きるとは、自分がいかに罪深い人間であるかを認め続けることです。真実なる悔い改めによって、命に立ち帰っていくことが赦されている。この恵みに感謝をささげて生きる。それが真実なる信仰の姿でありましょう。
主イエスは今も、地上に生きる私たちの真実なる姿と、主イエスと共にある喜びに満ちた神の国での命を明らかにしています。この光によって、私たちも永遠なる真理を知り、忍び寄る死の影から解き放たれていくのです。

