「我々はその時」
説教要旨( 8月16日 朝礼拝)
申命記 第3章 1~17節
マタイによる福音書 第17章 1~8節
橋本いずみ
「彼を恐れてはならない」モーセは、主がお語りくださった言葉を思い起こして言います。「わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンにしたように、彼にも行いなさい。」と。シホンとの戦い(第2章)では、神ご自身が戦いの主導権を握っていて、イスラエルの民に土地が与えられたことが記されています。それと同じようにオグの治めていた領地を見事に手にしました(3−7節)。そのとき全てを「滅ぼし尽くした」と言います。滅ぼし尽くすということは、神の戦いであったことを現すことです。彼らは領地を手にした時に、その領地を完全に神にお捧げし、神が支配するところとして、その地を神に明け渡したのでした。この戦いによって、神の約束の土地に先立つ土地―アルノン川からヘルモン山に至る大きな土地―が、神の支配する領土として、イスラエルの民に与えられました。
今日の新約聖書の個所で、主イエスの御姿が変わった高い山は、ヘルモン山であったと言われています。かの昔、神がイスラエルの民に神がお与えくださった山に主イエスは弟子たちとともにお登りになられました。そこで高くて美しい山にも劣らない御姿に変えられるのです。
顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった主イエスの姿は、復活の主イエスを思い起こさせます。ペテロはその光景を見て本当に驚いている様子です。仮小屋を三つ建てましょうと言いますが、何とも的外れな提案です。
主イエスは地上の御姿ではない御姿に変えられて、弟子たちの前には来るべきときの様子が明らかにされているのに、ペトロは、仮住まい―地上での―話をしている。主イエスは、ペトロに仮小屋を造って欲しかったから、高い山に一緒にお上りになったのではありません。人間が手も足もでない、神がご支配くださるところがあることを弟子たちに見せたいと思ったからこそ、主イエスは、弟子たちを連れて山に登られたのです。
弟子たちは、高い山において、確かに主イエスの復活の姿を予め、見たのです。それは、一時の夢の中の出来事に思えるように、あまりにも現実離れをしたものであったかもしれません。しかし、主イエスの御姿を見た弟子たちは、主イエスが十字架にかかり復活されたとき、驚きと恐れをもって高い山で起こったことを思い起こしたと思うのです。弟子たちが高い山で見た主イエスのお姿は、幻想でも、夢でもなく、それは彼らが向かうべき道をはっきりと示される幻(ビジョン)でした。
そこで弟子たちは、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と雲の中から響く声を聞いて、ひれ伏し、恐れます。ひれ伏したとは、礼拝したということです。主なる神は、弟子たちに主イエスの復活の御姿を示されたように、わたしたちに神が支配される神の領域を予め見させてくださいます。わたしたちは礼拝において、主わたしたちは主イエスと共に高いところへと上げていただいて、向かうべきところを示されます。オグの戦いによって与えられていた領地は、神の約束の土地の先取りとしてイスラエルの民に与えられたものでした。神が支配されるところ―神の領地を、今の時代にあっては、教会にお与えくださいました。
わたしたちは人間の領域のこと―人間が支配するところで、苦しみ、悩み、傷つきます。そこから神が支配される神の領域に、招いていただきました。ここに神と出会える場所―人間の領域の痛みや悩みを手放すことのできる場所があります。
主イエスは弟子たちと共に山に留まられるのではなく、山を降りて十字架に向かわれます。
主イエスが十字架にかかって復活させられたということは、わたしたちが、人間の支配しているところで負う痛みや悩みも必ず、癒されることをあきらかにしています。わたしたちのこの地上での歩みを通して、それが刺し貫かれて、神の完全な支配が、神の領域はやって来ます。
「恐れるな」との主イエスの言葉に促されて、弟子たちは、山を下りていきました。天地を造り、わたしたちを創造し、主イエス・キリストを復活させられたお方が、わたしたちに「恐れるな」おっしゃいます。神が完全に支配される神の領域を目指しながら、進んでまいりましょう。

