「神に造られた器」
説教要旨( 8月23日 朝礼拝)
イザヤ書 第45章 9~12節
ローマの信徒への手紙 第9章 19~29節
倉橋康夫
冒頭でパウロは、<ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが、神の御心に逆らうことができようか。」>、と言います。神が好きなように全てをなさっているのなら、人間を責めることなどできない筈ではないか、と。ここには、人には責任がないのであって、神にこそ責任がある、と言いたい人間の気持ちが反映されています。私たち自身を省みると、このような思いを少しも持ったことがない、とは言えない現実があると思います。神のなさることに抵抗できないままに、納得できず、何故、どうして、と不信を募らせてしまうのです。
ところがパウロは、<20節 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。>、と切り返します。人間とはそもそも何者か、と。そこで、パウロは、「造られた物と造った者」という、人間の存在根拠と言うべき事柄へと話を進めます。<20節 ・・・ 造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。>、と言います。ここには、併せて読んだイザヤ書 第45章のイメージがあります。<9節 災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。/粘土が陶工に言うだろうか/「何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない」などと。>神に造られた自分、そして、このように生かされている自分。この自分を感謝して受け入れ、生きること。ここに神の祝福が現されます。<「どうしてわたしをこのように造ったのか」>などと言うべきではなく、神の自由な創造のみ業によって自分が存在していることを受け入れる。ここに、私たちの立つべき原点がある、と言うのです。
パウロは更に、<焼き物師は同じ粘土から>、その用途に応じて、自由に器を造る、と言います。或る物を貴いことに用いる器に、他の物を貴くないことに用いる器に、と。貴くないことに用いる器とは、頑なエジプト王・ファラオのことかも知れない。或いは、イスカリオテのユダを思い出す人もいるでしょう。神のみ業は、醜く罪深い人間の有り様をくぐり抜けるようにして、進められました。そして最後に、主キリストの十字架の出来事です。ここで私たちは、自分こそが実は、一人のユダであったし、今なお、ユダになる可能性を秘めていることを思い起こすべきでしょう。このことは、次に語られる「怒りの器」と「憐れみの器」についても言えます。神の怒りを受ける器と神の憐れみに与る器のことです。神の怒りを受け滅びる筈であった者、と言う場合、私たちは、自分こそこの怒りの器でしかなかった、と思い起こされるからです。
ユダヤ人は、自分たちこそ憐れみの器であって、異邦人は滅ぶべき怒りの器であると考えていました。しかしパウロは、異邦人を<怒りの器として滅びることになっていた者たち>と考えられていたが、救いに導くために寛大な心で耐え忍ばれ、また、ユダヤ人は憐れみに与るべき者だが、更に<御自分の豊かな栄光をお示しになるため>に神は耐え忍ばれたとするなら、全く違った視野を与えられるではないか、と言います。パウロは、神の救いのご計画についての新しい視点を提示するのです。
この視点からパウロは、<24節 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出しでくださいました。>、と言います。このように、パウロは、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、「神に造られた器」として神と向き合い、主キリストの出来事に触れ、福音を受け入れる時、神の怒りを受けるしかない器であった者たちが、神の憐れみに与る器とされるのだ、と言うのです。「神に造られた器」として、謙虚に、そしてただ、神の恵みによって救われ、生かされている者として、信仰の歩み、証しの生活を進め参りたいと思います。

