「信仰による義」
説教要旨( 8月30日 朝礼拝 )
イザヤ書 第28章14~18
ローマの信徒への手紙 第 9章30~33節
倉橋康夫
パウロは、いよいよ問題の核心に迫る議論へと入ります。改めて、<では、どういうことになるのか。>、と問うた上で、パウロは、<義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。>、と言います。一方では、義を求めなかった者が義を得、他方、義の律法を追い求めていた者が律法に達しない。「求める」、「追い求める」の原語は同じです。「義」は、追い求める・自分の努力や力で獲得するものではなく、恵みとして与えられるものです。従って、<義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。>、と言います。「信仰による義」と言い直している点が重要です。「義」とは、神に良しとされ、受け容れられ、祝福されることです。
ここでパウロは、キリスト教会を見つめている、と言うことができます。信仰による義を与えられた人々が集められている。民族や人種を越えて、ローマ人もギリシア人も、そしてユダヤ人も・・・。<異邦人>と訳されている字は、群集、国民、人々、等々の意味もあります。従って、この中にはユダヤ人キリスト者を含む、と考えられます。異邦人全体がキリスト者になったわけではありません。色々な民族からキリスト者が起こされ、キリスト教会が各地に建てられていたのです。ところが、ユダヤ人の大多数はキリスト教会に背を向けている。その事実を、パウロは、「異邦人は義を得、イスラエルは律法に達しない」と表現したのです。ユダヤ人のあり方について、<義の律法を追い求めていたのに、その律法に達し>なかった、と言います。これは、ユダヤ人の神からの義の求め方の特徴と過ちを指摘する表現です。「イスラエル」という呼び方を繰り返し、神の祝福へと招かれている筈の民であるのに、という無念の思いを表しつつ(9章全体を通して)、義の律法を追い求めて、しかしそれに達しないユダヤ人の現状を直視します。
このことを、<なぜですか。>と問い、<信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。>と言います。そこには、思い違いと思い上がりがありました。信仰は神へのただひたすらなる信頼であるのに対し、行いは自分の力に頼り、自分の功績を誇ることに繋がります。ユダヤ人たち・<彼らはつまずきの石につまずいた>と言います。<つまずきの石>とは、主イエス・キリストと神ご自身のことであり、主キリストを通して神が成し遂げてくださった救いのみ業を意味します。
そこでパウロはイザヤ書から<「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。/これを信じる者は、失望することがない」/と書いてあるとおりです。>、と引用します。前半は、イザヤ書 第8章14節aから、後半は、併せて読んだ第28章の16節からです。「シオン」は、エルサレムの古称で、エルサレムの住民をも意味します。主なる神は、民にとってつまずきの石、妨げの岩であり、人間は神のなさることに躓いてしまが、実はその躓きの石、妨げの岩は、堅く据えられた礎、貴い隅の石なのだ、とイザヤは指し示すのです。ここには、主キリストによる救いの確かさが暗示されています。主キリストによって、神の祝福が確保されたのです。この救いを信じるか、と信仰が問われている、とパウロは言いたいのです。<これを信じる者は、失望することがない。>、と。主キリストの十字架の大きな恵みを小さくすることなく、主の十字架を虚しくする(ⅠCor. 1 : 17)愚かさに陥るのではなく、その主の十字架の恵みに堅く結ばれ、その恵みを信じることによって罪の赦しを受けている幸い、「信仰による義」を受けている幸いを証ししていきたい、と思います。

