「神の義によって」
説教要旨( 9月6日 朝礼拝 )
イザヤ書 第51章 4~8節
ローマの信徒への手紙 第10章 1~4節
倉橋康夫
パウロは、<兄弟たち>と、ローマの信徒たちに親しく呼びかけ、「心からの願い」と「神への祈り」を語ります。それは、ユダヤ人の救いについてです。パウロは、<わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しします>、と言います。しかし、ユダヤ人たちの神への熱心が、主イエス・キリストを十字架につけることになったのです。神への熱心に生きていた人々が、自分たちの主張する義の名の下に、主イエスを神を冒瀆する者として殺してしまいました。「神への熱心」については、パウロ自身、誰にもひけを取りませんでした。でもパウロは自分について、<熱心さの点では教会の迫害者>(フィリピ3 : 6)、と述べています。パウロは復活の主との出会い(使徒言行録9 : 1~ 5)を通して、過ちに気づかせられました。
ここで、<この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。>とは、パウロ自身の実感でもありました。正しい認識に基づかない熱心が、どれほど恐ろしいものであるかをパウロは痛感しています。これは、人間的な知恵や知識のことではなく、主キリストの十字架から与えられる正しい知識のことです(Ⅰコリント 1 : 18~31)。
それでは、主キリストの十字架によって与えられる正しい認識とは何か。既に第3章26節で、十字架の意味について、<このように神は忍耐して来られたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。>、と述べられていました。主キリストの十字架は、信じる者の罪を赦して義とする神の恵みですが、それ以前に、神の正しさ・神の義を明らかにするものなのです。それに気づくことをパウロは<正しい認識>と言います。併せて読んだ、イザヤ書 第51章で次のように預言されています。<4節・・わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人に光として輝かす。/5節 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。・・・>、と。ここでの<裁き>とは、単純に「断罪」を指すのではなく、神の義の貫徹のことであり、人間を救いへと導くことを意味します。
そこでパウロは、ユダヤ人のあり方はについて、<神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった>、と指摘します。自分の義を立てることによって、信仰生活が成り立つかのように考えることは、神の義の何たるかを知らない思い上がりだ、と言うのです。私たちの信仰生活に求められることは、自分の義を立てることではなく、神の義に従うことです。神の義に従うとは、主キリストの十字架の恵み、を感謝して受けることです。そして、この神の恵みを信じて受けることが、「神の義によって」生きるということです。
そして、この主キリストの十字架こそが全き救いのみ業であった、ということを、パウロは<キリストは律法の目標であります。>、と言います。主キリストの十字架こそ、律法の目標とするところ、即ち、神の義を明らかにする出来事でした。あの主の十字架によって、律法が満たされ、成就したのです。
その信仰の歩みは、最早、自分の義を立てようとする偽りに満ちたものではなく、打ち砕かれ、ただ「神の義によって」生かされる生活となります。この「神の義によって」生かされる幸いな歩みは、<信じる者すべて>に与えられます。パウロは同胞のユダヤ人の救いを切に願っています。しかし、主キリストの福音の射程は、信じる者全てに向けられているのです。これが、神の為し給う救いのみ業だからです。従って、パウロは、ただ「神の義によって」生かされることを願う者に、同胞が加えられるように、と祈るしかないのです。私たちもまた、信じる者全てに与えられる「神の義によって」生きる者とされています。

