「あなたたちは自由になる」
説教要旨(9月13日朝礼拝)
イザヤ書 第61編 1節
ヨハネによる福音書 第8章 31~38節
伊藤英志
仮庵祭が終わったばかりのエルサレムの神殿で語り続ける主イエスの教えに、人々が問い詰めていきます。「『あなたたちは自由になる』とどうしていわれるのですか」。
なぜなら、人々には自分たちが神の御許に留まり続けている自負心と、律法を忠実に受け継いできているという自尊心があったからです。自分たちはすでに自由を得ているはずだと考えていたからです。
人々は主イエスに問います。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」。そのように得意げに語る人々は、神の子が語る言葉に聞こうとしない罪に繋がれている姿に気付いていません。その姿は、イスラエルの歴史において現れていました。
かつてエジプトの奴隷であったイスラエルは、モーセの導きで40年間にわたり苦難に満ちた荒れ野を旅しました―この苦難と神の恵みを覚えるのが仮庵祭です。約束の地に入った民はイスラエル王国を立てますが、南北に分裂した後に50年もの間、バビロニアの奴隷になります。エルサレムに戻った民は神殿を建てますが、主イエスの時代にはローマ帝国の支配下におかれます。
イスラエルが生きてきた地は、移り変わり続け、民の歴史は死との戦いでした。死の問題こそが、イスラエルの歴史全体に突きつけられてきました。神の憐れみによってエジプトから脱出し、死の恐怖が拭い去れたはずの民は、それぞれの時代に直面した窮状に不安を覚え、神に向かって不満の声を挙げ続けます。なぜなら、民は、神が語り示す言葉にとどまろうとはしてこなかったからです。
その姿は、神から見れば、真に貧しい、貧しさの極みにある人間の姿です。日々の現実や目の前にある状況について、自分が望むとおりに事が進まないことに不満と憤りの声を挙げていく。そうした思いの奴隷となって自由を全く失い、自分こそが神であるかのように振舞っていく。それが、イスラエルの民を通して示された人間の真実なる姿です。死を免れ得ない人間の罪ある姿です。
貧しいままで死に直面している人間に、神はモーセを通して律法を授けました。神を礼拝することによって自由を得させ、民を癒し、民を死から解き放つために、律法を授けました。しかし、民は人間の力と知恵によって自由を得ようとし、既に自由の身となったと信じようとします。それが神殿で主イエスを問い詰めていた人々の姿です。
だからこそ、主イエスは告げています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
主イエスの言葉にとどまるとは、主イエスが教える通りである自分の罪ある姿を認めて、罪の奴隷から解き放たれて、自由にされていくことです。奴隷から解き放ってくださったお方のもとに仕え続けることを、自分の意志で心から願い出るようにされる。これこそ、本当の自由を得て解き放たれた人間です。
人間が持ちうる、持つべき本当の自由は、神の言葉にとどまることによって到達します。神の律法を完成させた十字架と復活の主イエス・キリストという真理によって、神の慈しみ深い恵みである真の自由が、私たちにも示され続けています。
真の自由とは、死からの自由です。自己正当化の言葉や言い訳を並べて、自分についての完璧なつじつま合わせに挑んでいる姿に、自由はありません。自由なき人間は、死の谷の淵を貧しい姿で歩き続けていくだけです。
私たちも、かつて聖霊の注ぎを受けた預言者イザヤのように自由に向かって打ち砕かれていく者たちです。死の恐怖から解き放たれた真の自由を味わう者たちとなります。
主イエスの御言葉にとどまり続ける人間にとって、終わりの時は、真実なる完全な自由を得た命に生きる始まりの時となります。栄光に満ちた神の国にある家に、輝かしい姿でもって招き入れられる時に向かって、この私たちも、この地上を前進していくのです。

