「心で信じ、口で言い表し」
説教要旨( 9月20日 朝礼拝 )
申命記 第30章 11~14節
ローマの信徒への手紙 第10章 5~13節
倉橋康夫
パウロは改めて、律法・神の掟を守ることによって救われるとするのではなく、<信仰による義>について語ります。そこで、<「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」>、また、<「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」>、と言います。これは、そのようなことはあり得ないという意味に用いられていた慣用句です。しかし、主キリストは事実、天からこの地上に降りて来られ、しかも死んで後、地の底、陰府にまで降られたのであり、また復活されて後、天に上られました。
<キリストを引き降ろす>ことになるとは、天から来られ、天に上られた主キリストを、地上の存在、ただの人間にしてしまうことであり、また、<キリストを死者の中から引き上げる>ことになるとは、神であるキリストが人間となられ、人間の罪のために死に、陰府まで降られたその事実を否定することになる、ということです。信仰による義とは、この主キリストの出来事を信じること、そこに私たちの救いがある、と信じることに他なりません。
そこで改めて、パウロは、<では、何と言われているのだろうか>、と言い、申命記 第30章の言葉を、主キリストにおいて成就したこととして引用します。つまり、<「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」>と言われているが、<これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。>、と。そこでパウロは、その信仰の言葉を具体的に、<口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる>、と言います。<イエスは主である>とは、初めの教会の最初の信仰告白です。主イエスこそ、自分の主人であり、依り頼む方である、と口で言い表し、更に、その主イエスを父なる神が復活させられたと信じるのです。このことを、一つの信仰の言葉とし、口と心において、つまり全身全霊をもって告白し信じる、というのです。
<神がイエスを死者の中から復活させられた>とは、人間の罪の贖いのための十字架の死を前提にしています。従って丁寧に言うなら、使徒信条に倣って、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降られたイエスを」となります。また、復活についても、「死者の中から復活させられ、天に昇られた」となります。これが、私たちの信仰の言葉であり、使徒信条、その他の信条・信仰告白において、代々の教会が受け継いできたキリスト教信仰です。そして、この信仰を持つということが、イエスを主とする、ということであり、イエスは主なり、と告白することなのです。
そこで改めて、パウロは事柄の順序として、<実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。>と言います。そしてこのことは、事柄の順序とは言うだけではなく、信じることと、言い表すこととは、表裏一体であって、切り離すことはできないことを指しています。また、<公に言い表し>と訳されている字は、「告白する」と「讃美する」の両義があります。信仰の生活は、日々心で信じ、口で言い表す歩みです。そしてそれは、讃美・告白の生活なのです。
そこでパウロは、<主を信じる者>(イザ28 : 16)と<主の名を呼び求める者>(ヨエル3 : 5a)は、ユダヤ人、ギリシャ人の区別はなく、全て救われると言います。この場合、主の名を呼ぶとは、主キリストの名を呼ぶこと、また、主キリストの父なる神の名を呼ぶことです。つまり、主キリストの救いのみ業を信じて、主の名を呼ぶのです。この呼び求めは、感謝と讃美であり、祈りです。それは、何よりも礼拝です。「心で信じ、口で言い表し」ながら、この幸いな信仰の歩みを、喜ばしく共々に、進めて参りましょう。

