「誇りは増し加わる」
説教要旨( 9月27日 夕礼拝 )
フィリピの信徒への手紙 第1章 25~26節
橋本いずみ
「あなたがたの誇りは、増し加わることになる」伝道者パウロは、フィリピの教会の人々と相見えるときのことを思って語りました。
「誇りが増し加わる」と言う前に、確信していることを述べています。それは、あなたがたのために肉に留まることが必要であるということ(24節)です。あなたがたのためにわたしは生きなければならないという確信がありました。パウロを命に留まらせようとしたものは、人の必要です。教会のために、福音を必要としている人のため、キリストの救いに預かる人の必要が命に留まらせたのです。
パウロは、「福音を宣べ伝える」という明確な使命を自覚していました。そして、自分が生きるのは、福音を告げ知らせるためであることを繰り返し受け止めていました。それは、言い換えるならば、神の必要がこのことにあると知っていたということです。救いを必要としている人に福音を宣べ伝えることは、第一に救われる人の必要があります。それは同時に、神が用いて福音を宣べ伝えさせようとする神の必要があるということです。自分にとって必要なことや欲していることではなく、むしろ、フィリピの教会の人々と必要と神の必要のために自分の命を使いました。
あなたがたの必要があることを確信しているので、わたしは生きながらえるといいます。パウロは迫害されて命の危険にさらされていた中で必ず神が自分の命を守ってくださることになると信じていました。このことを信じて、あなたがたと再び相見えるときには、あなたがたとわたしが一緒に過ごすことによってあなたがたの誇りは増し加わると言ったのです。誇りは、イエス・キリストと結ばれていることの誇りです。キリストの中にあるという誇りこそが、あなたがたの誇りであり、その誇りが増し加わるというのです。
私たちの日常で起こる事のすべては、キリストの中で起こっていることです。淡々と過ぎていく日常も、わたしたちが忘れられない悲しい出来事や嬉しい出来事も、キリストの中で起こる事にほかなりません。キリストの中にあって神が必要だとお思いになるところに、わたしたちは、置かれるのです。置かれている意味をはっきりと自覚している人もいるでしょうし、そのことの意味がまだ良く分からないということもあるでしょう。しかし、わたしたちが過ごす日々は、主の中にあることなのです。そして、そこで主に結ばれている私たちの誇りは増し加えられていくのです。
キリスト・イエスに「結ばれて」と訳されている言葉と同じ言葉が、「わたし」という言葉にも用いられています。わたしとの結びつきによって、あなたがたの誇りは増し加わると言っているのです。
わたし(パウロ)は福音を宣べ伝えた伝道者でした。伝道者と結びつきが教会の誇りとなるのです。結びつきとは、仲良くすることではありません。その人が、本当に伝道者であり続けることを支えることです。神からの召しを受けたものが、その召しにふさわしく歩むことを願い、そのことを助け続ける、それが、伝道者と結びつきを持つということです。
今日、神学校を覚えて礼拝を捧げることができたことは、わたしたちの教会にとって、本当に感謝なことです。神学校を覚えるということは、伝道者を支えることと深く結びついているからです。神学校で学ぶ神学生は、いずれ伝道者として送り出されて行く人たちです。この教会からも多くに伝道者が遣わされて行きました。神学校を覚え、伝道者を支えて、送り出すことは、わたしたちの教会に誇りが増し加えられることです。
伝道者を支え、祈り続け、キリストにあって、伝道者たちと結びつきを持ち続ける群れでありたい。そして、わたしたちも神の必要によって遣わされていく地で、福音を宣べ伝える伝道の働きを担うものでありたいと願います。パウロは、自分があなたがたの前に姿を見せるときに、あなたがたの誇りは増し加わると言いました。神は、遣わした者たちを再び相見えさせてくださいます。その時、わたしたちの誇りは増し加わることになるでしょう。

