「信仰は聞くことから」
説教要旨( 10月4日 朝礼拝 )
イザヤ書 第52章 7~10節
ローマの信徒への手紙 第10章 14~21節
倉橋康夫
前段の最後で、<「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」>と述べられ、本日の個所の最初(14節)に、主の名を呼び求めるに至る筋道が三段論法的に、しかもそれを逆から辿って語られます。順序通りには、宣べ伝えられ、聞かれ、信じられ、そして、呼び求めるに至るのです。しかし、それらの一切は、「遣わされる」ことに懸かっている、と言います。<遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。>(15節)、と。遣わす方があって、宣べ伝えるものが託されるからです。
そこでパウロは、イザヤ書の第52章から引用します。<良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてある>、と。元来<良い知らせ>・福音とは、戦いの勝利、或いは王子の誕生の知らせのことで、使者・伝令がそれを国の隅々に告げ知らせたのです。けれども、イザヤ書では、神が王となられた、神がその支配の力を現された、主なる神に依り頼む者は安全である、と保証されるという知らせのことです。
このようにして、良い知らせ・福音が宣べ伝えられるのだが、<しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。>、とパウロは言います。パウロの心を悩ませているのは、ユダヤ人たちです。パウロの同胞のユダヤ人の多くが、福音を受け入れようとしないからです。パウロはイザヤ書第53章から引用して、<イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。>、と言うのです。
扨て、パウロは改めて、信仰が起こされる由来について語ります。<実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。>(17節)、と。原文通りは、「信仰は聞くことから」です。「聞く」とは、自分を虚しくして、しっかり心に受け止めることです。パウロはこのイザヤの預言を示しながら、主キリストの福音が語られる場合に当てはめています。福音が語られ、その声を人々は聞く、ユダヤ人が聞く。けれども、その内容を受け入れることをしない、と言うのです。
「信仰は聞くことから」と言って、パウロは直ぐに、「キリストの言葉を通して聞くこと」と補足します。ここの<キリストの言葉>とは、主キリストを指し示す言葉、主キリストを内容とする言葉、と捉えることができます。この主キリストの事実、その出来事を聞くことから、信仰は始まる、と言うのです。
パウロは詩編 第19編から引用して、神の栄光、神のみ手の業が天地に現れているように、主キリストの福音も、世界の隅々に向かって響き渡っているのだ、と主張します。彼らは聞いても、心に受け止めることをしなかった、主キリストの福音によって生きる、方向転換をしなかった、福音によって自分が変えられることを望まなかった、と言うのです。しかし正しく聞く人は、主の十字架の事実によって、自己が打ち砕かれ自らの罪を深く悔い、神の赦しなくしては生き得ない自分を認めることになります。イスラエルはその真相を悟っていない、とパウロは言います。
しかしながら、イザヤ書 第65章2節により、主なる神は、<不従順で反抗する民に>手を差し伸べ続けていて下さるのだ、とパウロは言います。「父が手をのべて、自分の子をやさしく胸に抱こうとして待っているように」(カルヴァン)。この神のみ手へと繰り返し立ち帰る歩みこそが、他ならぬ私たち自身の歩みです。この信仰の歩みの原点・出発点が、主キリストの言葉を聞く、福音を聞いて打ち砕かれ、整えられ、押し出されるところにあります。「信仰は聞くことから」 常に、主キリストの言葉を聞き、主キリストの出来事に堅く結ばれて、父なる神のみ許に立ち帰りつつ、信仰の歩みを進めて参りましょう。

