「神の言葉を聞く者」
説教要旨( 10月 11日 朝礼拝)
イザヤ書 第66章 1~2節
ヨハネによる福音書 第8章 39~47節
伊藤英志
仮庵祭が終わったばかりの神殿で弟子になろうとしていた人々に主イエスが告げていきます。「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか」、「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」。人々はこのお方と話しているうちに、次第に反発していったからです。
アブラハムの子孫であり、神の律法を守り、神殿での祭儀(仮庵祭など)を守っていると自負している人々は、神の言葉に聞き従ってきているという自尊心があります。しかし、主イエスはそうした人々の思いを見抜いています。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを殺そうとしている」。
かつてイスラエルの祖先たちは、神から遣わされた預言者たちを追放し、殺害しようとしてきました。そうした祖先の真実なる姿を認めようとはせずに、「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言い張る人々がもつ自尊心や思い込みによる自負心は、真実を覆い隠そうとし、自分たちの都合に合う真実を作り上げようとしていきます。
そうした姿を戒めるかのように主イエスが告げます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである」。神から遣わされて、神殿で語り続ける主イエスを愛することへと向かっていかない姿は、神の言葉に聞き従ってはいない姿です。その理由も主イエスが告げています。「わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを愛さない」。
人々は、偽りなき真実を語る人を愛することができません。なぜなら「悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」からです。その「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとはしていない」のです。
人間の中に潜み続け、古来から受け継がれてきた悪魔とは、真実を語る人を憎むようにさせます。その人について同じ真実を語っているのに、自らの口でそれ語っている時には安心をもたらす一方、他の人からその真実を見破られてストレートに指摘されるや激しい怒りを生じさせる、それが悪魔の仕業です。
命に至る真理という土台に立っていないそうした悪魔は、人間を真理から遠ざけようとし、人間を死へ、人殺しへと追い詰めていきます。消し去ってやりたい者の死や滅びを喜びながらも、自らが死に至ることを極度に恐れていく。そうした魂の死、霊の死へと人間を追いやろうとします。それが、聖書が語る、主イエスを十字架につけて殺害しようと働いた罪の力の正体です。
神の言葉に忠実に聞き従った生涯を送った信仰の父アブラハムの時代には、神殿はありませんでした。むしろ神殿がイスラエルの民に与えられ、立派で荘厳な神殿を目にすると、民はそれで信仰が完成したかのような気になってしまい、神の言葉を聞いているようでいつの間にか聞き従わなくなっていったのです。そうさせるのが悪魔の仕業です。
神は今日に至るまで、そうした人間を戒め憐れんでくださいます。イザヤ書にあるように、悪魔との戦いに「苦しむ人」、真実によって「霊の砕かれた人」、「わたしの言葉におののく人」を神は顧みて下さってきました。
地上に遣わされた主イエスが語っている真理とは、自らの内に潜む悪魔について知らされることです。死ではなく命に至る神の言葉に、腹を立てることなく悔い改めをもって聞き従う者とされていく恵みのことなのです。
この地上は、古い神殿が打ち壊され、新しい神殿がたてられていく時代を迎えました。新しい神殿とは、十字架と復活の主イエスご自身の体である教会に他なりません。新しい祈り家、神の家―教会において、私たちの霊に響き渡る神の言葉が語られています。
この私たちも、悪魔が語る言葉に恐れおののくではなく、神が語ってくださる言葉にいよいよ聞き従っていく者たち―「神に属する者たち」とされようではありませんか。

