「神はその民を見捨てられない」
説教要旨( 10月 18日 朝礼拝)
列王記上 第19章 11~18節
ローマの信徒への手紙 第11章 1~10節
倉橋康夫
冒頭に、<では、尋ねよう。>、とあり、「神は彼の民を見捨てたままだったのか」、と問い、<決してそうではない>、とパウロは断言します。神が選び、祝福を約束して下さった筈の、パウロの同胞、イスラエルの民、ユダヤ人の有り様を心配しながら、しかし、パウロは神の恵みのみ業を堅く信じて語ります。
そこで、その根拠として示すことは、パウロ自身が最も典型的なユダヤ人でありながら、現に主キリストによる救いに入れられている、ということ。パウロは、ファリサイ派としての自分の生き方が根底から覆らされた、主キリストによる救いの圧倒的な力を知っています。(フィリピ3 : 5~11、Ⅰコリント1~18参照)私たちも、どのような試練に遭っても、どのような困難な状況に置かれても、主イエス・キリストによって成し遂げて下さった神の救いのみ業を思い起こす時、神さまは自分を決して見捨てられない、と確信することができます。
自分にそれを受ける資格があるからではありません。神がそのような恵みのみ業を為して下さった、という主キリストの事実があるからです。神はご自分の民を救いから遠ざけようとしておられる訳ではない、とパウロは言いたいのです。<神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたり>はなさらない、と。
全ては、神のご計画に懸かっている。パウロは、神は、<前もって知っておられた御自分の民>を定めていて下さる、と言います。神の秘められた恵みのご計画を、私たち人間が知り尽くすことはできません。しかし、それを信じることはできます。現に、自分が主キリストの救いを信じる者とされている、とパウロは言うのです。そして、それはまた、私たち自身にも当てはまります。この自分が、キリスト者となっている。ここに、神の恵みのご計画を見ることができるのです。
そこでパウロは、旧約聖書に記されている事例を取り上げます。併せて読んだ、列王記上の第19章です。主なる神に熱心に仕え、そのために神に背く者、偶像を拝む者との戦いを余儀なくされたエリヤの苦境が記されています。<「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」>、と。エリヤの訴えに対して、<4節 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。>、というのです。これは、エリヤにとって思いがけないお言葉でした。孤軍奮闘している、と悲観し、絶望的になっていたからです。
パウロも、同じような心境になることがあったのではないか、と推測できます。しかし、パウロは、<5節 同じように、現に今も恵みによって選ばれた者が残っています>、と信じるのです。<現に、今も>とは、「今の時にも」であり、この「時」という字は、神のご支配の時、という意味です。「今」も神のご計画が進められている時であり、<前もって知っておられたご自分の民>、<恵みによって選ばれた者>を準備していて下さる、と言うのです。
教会の歩みは、このような神の恵みの選びの下に進められています。この神の恵みによって集められた群が教会です。パウロは、同胞であるユダヤ人たち、イスラエルの民が神の恵みに気づかない現状を憂えつつ、しかし「神はその民を見捨てられない」とは、ユダヤ人、異邦人の枠を越えて、「神の真実である、」と言いたいのです。私たちの教会の歩み、信仰者としての歩みも、この神の真実に支えられています。私たちも、主キリストによる救いに入れられている幸いを思いながら、神の恵みを証しする歩みを進めて参りましょう。

