「人々の先頭に立って渡る」
説教要旨( 10月 25日 朝礼拝)
申命記 第3章 18~22節
ルカによる福音書 第1章 67~80節
橋本いずみ
「イスラエルの人々の先頭に立って渡って行きなさい」とルベン、ガド、マナセの半部族に命じます。彼らは、真っ先に主なる神が与えてくださる土地を手にしました。
主なる神は、ルベンとガドとマナセの半部族が安らぎの土地を得たのと同じようにイスラエルのすべての人々に神の約束の地を与えたいと願っておられます。そして、彼らは、自分たちの部族の安らぎの土地を得た時に、「イスラエルの人々が、神の与えてくださる約束の土地を得るならば、今与えられた土地に帰ってくることができる」という新しい神のご命令の言葉を聞いたのです。
人々は安心して暮らせるところ、安心していられる場所を望んでいます。兄弟が安らぎの土地を得ることができるために、神によって安らぎの土地を与えられているものが、先頭に立って渡って行き戦えというのです。
申命記の言葉は神の民イスラエルが歩んできた道のりです。私たちは新しいイスラエルとして集められている神の民です。
新しい神の民である私たちにとって約束の土地、安らぎの場所はどこにあるでしょうか。この世界では、神が支配しているとは思えないことが起こります。一度、私たち自身に苦しみや不幸なことが襲いかかると、私は神に見捨てられたと感じ、神は何もご覧になっていないと思う。今は順風満帆だったとしても、苦しみを一度も経験せずに生涯を終えることのできる人はおそらくいない。この地で生きるときに、苦しみがあることを無視しては生きていくことができません。
しかし、私たちが信じる神は、エジプトがイスラエルを支配していたところから救いの御業を起こしてくださった方であり、主イエスの十字架と復活によって私たちを罪から解放してくださった方です。
私たちは罪から解放されなければなりません。罪の中に留まっていてはいけないのです。
神はわたしを見捨ててしまったのではないかという思いは、神への信頼を失った時に湧き上がってきます。この思いは罪から生まれてくるものです。そして、私たちは簡単にこの思いを抱いてしまう。もし私たちの内にある神から引き離そうとする思いや行いに神が目を留められるならば、見捨てられても仕方ないような存在です。
けれども神は分からず屋のわたしたちに主イエス・キリストを送ってくださいました。主イエスは、私たちの罪を取り除くために、神の支配へとわたしたちを招き入れるために、真の安らぎを得ることができるように、この世に来てくださった神の御子です。
この主イエスに、先立って遣わされて来た一人の人がいると併せて読んだ聖書箇所に記されています。洗礼者ヨハネは人々が主イエスと出会うために必要な人物でありました。彼を用いて、神は主イエスの道を整えてくださり、彼を通して人々は主イエスを受け入れるのです。
主イエスがわたしたちに与えてくださったのは、罪からの救いです。あの方の十字架と復活によって、神はこの世界を、私たちを完全にご支配くださる方となりました。
この方からわたしたちを引き離すことのできる者はありません。苦しみの中にあっても、病の中にあっても、人知れず努力しなければならないときであったとしても、私たちはこの方から安らぎを受けることができるのです。
私たちは、安らぎの場所を先に与えられた者です。まだこの地には、苦しみを負っている者がたくさんいて、神がその苦しみを取り除けて安らぎを与えてくださるということを知らない人たちがいます。
先に安らぎを得たものには、「先頭に立って渡って行きなさい」という新しい神さまのご命令がありました。ヨハネが主イエスの路を整えたように、私たちにとって大切な人々が主イエスを受け入れることができるために、遣わされて行きます。神から引き離そうとする力がうごめく世界に神の支配を携えて先頭を立って渡っていく者でありたいと願います。

