「勝利を賜る神」
説教要旨( 11月 1日 朝礼拝 逝去者記念礼拝)
イザヤ書 第25章 6~10節
コリントの信徒への手紙一 第15章 50~58節
倉橋康夫
本年も、逝去者を記念する礼拝を捧げる日を迎えました。
本日の聖書個所の初め(Ⅰコリント15 : 50)は、<兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。>、となっています。これまで語ってきたことをまとめるとすると、こういうことです、と。そこで、<肉と血は神の国を受け継ぐことはでき>ないことを指摘されます。神の国を受け継ぐ、神の許に迎え入れられ、神と親しく交わるのを、<肉と血>が邪魔をするのです。<肉と血>とは、この世に属する人間のことで、自己中心的な欲望に支配されている<自然の命の体>(44節)と言われているもののことです。私たちの今持っているこの体のままでいつまでもいられるものではありません。この体・肉体は、<朽ちるもの>、<朽ちるべきもの>です。
そこでパウロは言います。<わたしはあなたがたに神秘を告げます>、と。<神秘>は、口語訳聖書では<奥義>と訳されています。キリスト教信仰の一番深い部分であり、神秘であり、信ずべきこと、この世の知識や理屈の及ばないことです。<わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。>、と言います。ここで言われる眠りとは、「死」を意味します。私たちみんなが死に絶えてから、その時が来るというのではない、と言うのです。その時に生きている人々がいる、そのような歴史の只中で、そのことが起こるのだ、と言うのです。
そして、その時起こることは、死者の復活と、<朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る>、という事態である、と言います。<死なないもの>とは、44節で<霊の体>と言われているものです。この出来事が、神秘であり、奥義である、と言うのです。この時の到来が、<最後のラッパ>によって知らされる、と言います。このラッパという表象は、「人の子」の来臨(マタイ24 : 31)、また、この世が終り、<我らの主と、そのメシアによる新しい統治の開始>(黙示録11 : 15以下)の合図ともされています。神がこの世界の歴史を完結され、天と地を新しくされるのです。
ところで、朽ちるべきもの・死ぬべきものが、朽ちないもの・死なないものを着る、と言われています。朽ちるべきもの・死ぬべきものとは、私たち一人ひとりの人間・個々人です。朽ちるべきもの・死ぬべきものが、消えてなくなってしまう、というのではなく、「その人」が朽ちないもの・死なないものを身にまとう、霊の体を与えられる、と言うのです。そして、それは自然にそうなる、というのではなく、神がそのようにして下さる、神の力がそこで現される、ということです。ラッパはそのしるしなのです。神のみ力、無から有を創造される神のみ力によって、朽ちない・死なない霊の体を与えて下さるのです。
併せて読んだのは、イザヤ書 第25章6節以下の預言から、パウロは<「死は勝利にのみ込まれた。/死よ、お前の勝利はどこにあるのか。/死よ、お前のとげはどこにあるのか。」>、と言います。主なる神は、私たちに、死に対する勝利を与えて下さった、と高らかに宣言します。死のとげは罪。死の恐ろしさは罪にある。罪の中に死ぬこと、神との関係を断ち切られて死ぬこと、そこに真の恐ろしさがあります。そして、罪の力は、律法を通して発揮される。人間は、罪と死に縛り付けられた存在であり、朽ちるしかないもの・死ぬしか仕方のない、と知らされます。
けれども今や、私たちは、主イエス・キリストによって、感謝することができます。あの主の十字架と復活の出来事によって、です。この主キリストによって、神は<最後の敵>(26節)である死に対する勝利を私たちに与えて下さる、と言うのです。聖書は、私たち自身の復活の希望を告げているのです。この日、改めて深く主キリストによる神の恵みを心に刻みたいと思います。「勝利を賜る神」を仰ぎつつ、信仰の先達の後に続く復活の希望に結ばれた歩みを進めて参りましょう。

