「決して死なない」
説教要旨( 11月 8日 朝礼拝)
詩編 第49編 13~21節
ヨハネによる福音書 第8章 48~59節
伊藤英志
仮庵祭が終わったばかりのエルサレムの神殿で、ご自身の教えに反論し続けている人々に主イエスが告げていきます。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」。
真理を語っている主イエスに聞こうとしない人々は、神に属さずに死に向かおうとしている人々でした。その姿は、詩編にあるように、言葉によってはもはや統制の利かない獣の群れのようになっています。自分の力に頼って、自らの知恵と誇りによって納得と満足を手に入れるようする獣のようになった人々は、今、自分たちを牧している力が、死の力であることを自覚できなくなっています。
主イエスはご自身をお遣わしになったお方の御心を行っていると繰り返し語ってきました。そのお方を人々は敬うべきと告げてきました。なぜなら、そのお方について語る主イエスの言葉こそが、それを聞いている人々の生き死にを決定付けることになるからです。
主イエスが語る「決して死ぬことはない」とは、ただ不死の存在とされるというより、永遠に至るまで死を見ることがない、自分の死を自分が目の当たりにすることから永久に解き放たれるという意味です。
「わたしの言葉」とは、天におられる一人の父より示された「一つなる言葉」となった主イエスの言葉です。生ける水、光、命について。闇、肉、罪について。裁き、死について。自由、真理について。そうした教えが一つなる源である父から湧き出ている。その父を敬うために「わたしの言葉を守る」ならば、その人は決して死なないと告げています。
「言葉を守る」とは、定めの言葉に機械的に従って言いなりになることではありません。ここでの「言葉を守る」とは、内に備えられた言葉が外に漏れ出さないようにすることです。主イエスは天の父の言葉を内に秘めて、この地上に遣わされ、命にいたる言葉を人々に滴らせました。滴り落ちて注がれた主イエスの言葉を漏れ出さないようしてくことが、主イエスの言葉を守ることです。注がれた命の言葉が漏れ出れば、その死にさらされていくことになります。
神の恵み深きを味わうはずの神殿でお語りになっていた主イエスに反感を覚え、その教えに反発を強めていた人々は、まさに死にさらされていました。人々の内には、人間を死へと向かわせる死の言葉がよどみ溜まっています。死自らが、人々を滅びに至らしめる偽りの栄光を、死の言葉を語らせています。そして、人々を邪悪な獣たちとさせて、主イエスに襲いかからせようとします。
主イエスが「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言うと、人々は絶句します。この言葉を口にした者は、自分が神と全く等しい者であることを宣言したも同然だからかです。主イエスが神を冒涜した者と断定した人々は、石を取り上げて主イエスに投げつけていこうとします。父なる神の言葉を語っている神の子を、神がご自身を現わしてくださる神殿において処刑しようとしていく。これが人々にけしかけていく死の力がなす業です。
死の力は、今も恐るべき強さをもって私たちにも迫ってきます。詩編にあるように、死の力は、人間の栄華という形でこの地上に姿を現します。神の力に頼ろうとせず、自分の力に頼りながら、自分の口の言葉に満足しようとする者が求める栄光の行く末は、永遠に光を見ることのない死に他なりません。
「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる(詩49:16)」のが主の御業です。主イエスが、滅びに向かって屠られるべき獣たちの群れに代わって十字架で屠られた後に復活したのは、命に至る神の言葉を全ての人々の内に満たすためでした。全ての人々が主イエスの死によって贖い出されて決して死なない者となり、『わたしはある』という声を聞く者たちとなるためでした。
その声を聞く時、私たちも生ける命をもって、神が語ってくださる言葉に永遠に応えていく者たちとされるのです。

