「躓きから救いへ」
説教要旨(11月22日 朝礼拝 )
詩 編 第51編16~19節
ローマの信徒への手紙 第11章11~12節
倉橋康夫
パウロは、改めて<では、尋ねよう。>と言い、<ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。>、と問いかけます。「彼らは、倒れるために、躓いたのではないか?」(直訳)、と。更に言うならば、主なる神がユダヤ人たちを躓かせたのは、彼らを倒れさせるためだったのか、神の意図・目的は、ユダヤ人の滅びなのか、との疑問です。それに対しては、断固として、パウロは<決してそうではない>、と否定します。パウロの同胞のユダヤ人たちが、躓いたのは、或いは躓かされたのは、倒すため・滅ぼすためとは考えられない。背後におられるのは、神の民としてユダヤ人を選び立てて下さった、恵みと憐れみの神だからです。
そこで、ユダヤ人たちの罪によって惹き起こされた事態そのものを取り上げます。<彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされ>、と。ここの「罪」とは、「踏み外し、落ち度」ということで、口語訳聖書では「罪過」と訳されていました。ユダヤ人たちが、歩むべき道から踏み外したとは、主の十字架のこと、また、福音伝道を妨害したことなどが思い出されます。しかし、実際は、これら全てを通して、神の救いのみ業が行なわれ、福音伝道も全世界へと展開することになりました。
ところが、この異邦人が神の救いに与り、その恵みに感謝するようになるということは、ユダヤ人からするならば、心穏やかならざるものがあります。そのことによって、<彼らにねたみを起こさせる結果になる>、と言います。口語訳聖書では、<かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。>、と訳されています。<ねたみを起こさせる>という激しい感情の表現を、<奮起させる>と訳しているのです。通常、「妬み」という言葉は、マイナスイメージがありますが、ここではそうではないのです。ユダヤ人たちが、妬みを起こさせられるのは、異邦人が与っている、その神の恵みへと改めて立ち帰るためなのだ、とパウロは言いたいのです。
ところで、<彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる>、と言います。富とは、神の賜る豊かさのことです。これは、ユダヤ人だけではなく、私たち自身の信仰の歩みにおいても、正に罪(踏み外し)や失敗の繰り返しの中で、神の富・神の豊かさへと導かれ、赦しと救いを得て歩んでいるのです。
併せて読んだ旧約聖書は、詩編 第51編です。これは悔い改めの詩編です。深い悔い改めの告白をしたダビデは、<神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。/打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。>、と言います。パウロが、異邦人に救いがもたらされたのは、ユダヤ人たちに妬みを起こさせるためだった、と言うのは、正に、ユダヤ人たちが、この<打ち砕かれ悔いる心>を捧げるようになることを目指してのことなのだ、と言いたいのです。
<まして、彼らが皆救いにあずかるとすれば>、どんなであろうか、とパウロは言います。ユダヤ人を用いて進められた神のご計画が、彼らをも招き入れて完成する、と言います。神の救いの完成の時を望み見て、その時は<どんなにかすばらしいことでしょう>、と言うのです。
パウロは、ユダヤ人の姿を追いながら、神の救いの恵みの不思議さを語ります。「躓きから救いへ」 この神の恵みの不思議を、同胞のユダヤ人も招かれている神の救いを、パウロは語るのです。「躓きから救いへ」 これは、私たち自身の日々の姿でもあります。しかし、これは私たち人間の危うさ、心許なさのことではなく、寧ろ、神の恵みの確かさを指し示しています。私たちはただ、神の恵みと憐れみのみ手によって、信仰に生かされているのです。

