「聞かれない祈り」
説教要旨( 11月29日 朝礼拝)
申命記 第3章 23~29節
マルコによる福音書 第14章 32~42節
橋本いずみ
「わが主なる神よ」とモーセは、主なる神さまに祈り求めます。モーセには、主なる神さまに申し上げたいと思う願いがありました。それは、自分も渡って行って、ヨルダン川の向こうのよい土地、美しい山を見たいというものでした。モーセは、イスラエルの指導者として、「主なる神よ、わたしはあなたの僕」と神に祈りながら、イスラエルの民を導いてきました。モーセは、主なる神がこれまでの旅路でなしてくださった事を思い起こして、自分の願いを申し上げる前に、主の力強い御業を称えています(24節)。モーセは、主なる神が、熱き思いを持ってイスラエルの民を導いてこられたことを民の誰よりも祈りの中で示されてきたはずです。だからこそ、主なる神が約束された土地を、自分も見たいと願ったのでした。
主なる神は応えて「もうよい。このことを二度と口にしてはならない」とモーセの祈りを受け入れず、願いを叶えないと言います。その理由は、イスラエルの民ゆえに憤られたからです。民の中で、約束の地に入れられるのにふさわしいものはモーセだったに違いない。しかし、神はイスラエルの民ゆえにモーセの祈りを聞こうとはされなかったのです。
神は、最後まで神の僕として働くようにとモーセの願いとは違うことをお命じになります。それはイスラエルの民が向かう土地をしっかりと見つめ、イスラエルの民に祝福を祈り、次の指導者であるヨシュアを励ますことでした。神は予てからイスラエルの民に与えようと見ていた約束の地をモーセにも見させてくださいました。神はピスガの山頂に登らせ、神の見ていた者を同じように見せてくださったのです。
今日読んだ新約聖書には十字架にかかられる前に祈られたことが記されています。生涯を通して祈られた祈りの言葉であったことでしょう。父なる神さまは、全能なるお方であり、神が御望みになることは、必ず成し遂げられると主イエスは知っておられました。
神が御心をなしとられることのために遣わされて来た主イエスは、「この杯を取りのけてください」と祈られます。この杯と言われている神の憤りは、主イエスに対するものではなく、神に背き続ける人間に向けられているものでした。
主イエスはこの地上で苦しみも悩みもなく、迷いや不安なく過ごされたのではなく、祈ることを必要とし、神がお望みになられることを求めておられました。主イエスは、わたしたちが苦難の時を避けることができるならば避けたいと願うのと同じように、神の憤りを受けることを免れることができるなら免れたいと願ったのです。しかし、そのお方は、この祈りの後間もなく、十字架にかかられることによって神の憤りを受けることになります。
モーセの祈りを聞き入れず、主イエスの願いを受け入れなかった神が望んだことは、神の民が祝福を受けることです。本来ならば、神の民が受ける神の憤りをご自身の選んだ僕に受けさせて、神の民には祝福を与えようとされたのです。
これは神の偉大さであり、何でもお出来になるお方だからこそ成し得た御業です。神は、自らが一番信頼できる僕に、 最も過酷で厳しい使命をお与えになりました。神は祈りの中でその僕に御心を示し、神の民を祝福する偉大な御業のために用いられました。神ご自身が最も大切な僕を差し出してくださり、神の民は祝福を受けることになりました。
今日から、主イエスがわたしたちの救いのために来てくださった事を覚え、再び主が来てくださるのを待ち望みつつ過ごす季節が始まりました。主イエスは、わたしたちの受けるべき神の憤りを引き受けるために、この世に来てくださいました。このことを示されているわたしたちは、神の眼差しを持ってこの世を見つめ、神の民である教会を見つめ、「主よ、わたしはあなたの僕、御心がなりますように」と祈り、御業のために自らを差し出す者でありたいと思います。

