「神のご計画への信頼」
説教要旨(12月6日 朝礼拝)
民数記 申命記 第15章 17~21節
ローマの信徒への手紙 第11章 13~16節
倉橋康夫
パウロは改めて、<わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。>、と確認します。その上ですぐ、<何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。>、と言います。パウロは自分の異邦人への福音伝道が、自分の同胞・ユダヤ人の救いにも役立つと考えています。異邦人が主キリストの福音を受け入れ、神の祝福の許に喜んで生きる姿を見て、ユダヤ人たちが妬み・羨み、自分もその祝福を得たいと願うようになる。これが「神のご計画」であることは、前段で確認したところです。
パウロはここで、<幾人かでも救いたい>、と言います。切実なパウロの気持ちです。それは、主キリストの福音の素晴らしさを、愛する同胞に何とか伝えたい、ということです。主キリストの福音によって救われた者の善意です。素晴らしい物を得た時、愛する者とそれを分かち合いたいと願う気持ちに通じます。
そこでパウロは、<世界の和解>について語ります。<彼らの捨てられること>が、<世界の和解>となる、と言います。ユダヤ人が捨てられることとは、11節12節で語られていた、ユダヤ人の躓きと考えて良いでしょう。ユダヤ人の躓きが異邦人に救いを齎すものとなり、<世の富>となるとありました。それを、ここで改めて、<彼らの捨てられることが、世界の和解となる>、と言い直します。
ユダヤ人には、神に選ばれた民という民族的な誇りがありました。けれども、彼らは傲慢となり、主キリストを十字架につけるという事態を惹き起こしました。しかし、この出来事によって、改めて神の恵みと憐れみにすがるように、と促しを受けることとなりました。一方異邦人は、神の恵みも憐れみも知らずに生きてきた人々です。彼らは、主の十字架と復活の出来事に出会って、初めて罪を悔い、赦しを求めるようになります。このように、主キリストの出来事は、ユダヤ人と異邦人の区別なく、全ての人々の神に対する驕り、高ぶりを打ち砕き、神の恵みと憐れみの許へと招くのです。
ところが、肝腎のユダヤ人は福音を拒んでいる。しかしユダヤ人の中から、主キリストの福音を信じる者が起こされると、神の救いのご計画がいよいよ完成へと向かいます。<彼らが受け入れられるということは、死者の中からの命でなくて何でしょう。>、と言います。死んだ状態から、命へと移されるということです。
そこでパウロは、旧約聖書からのイメージを引用します。併せて読んだ民数記 第15章17節以下です。パウロは、ここから得たイメージを、<麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体がそうであり、・・・>、と言います。<献納物>とあるのを、<聖なるもの>と言い換えたのです。神への<献納物>は聖別されるからです。初物の麦粉で作ったものの一部を神に捧げると、それは聖なるものとされ、更に収穫した麦粉全体が聖なるものと認められることになる、と言うのです。
主キリストの福音を信じ、神に受け入れられたユダヤ人たちは、その民族全体を神に執り成す立場に置かれます。私たち日本人のキリスト者も同じです。いずれにしても、ここでパウロは、神の救いのご計画が完成に向かって確実に進められていく、と言いたいのです。ユダヤ人たちが除外されることはなく、日本人も除外されません。
全ての人々に福音の招きは与えられ、呼び集められて、救いは完成するからです。私たちの歩みは極めて不安定なものです。けれども、神のご計画は変わりません。私たちは、この神のご計画に信頼して生きるのです。私たちの信仰の歩みの確かさは、神のご計画に根拠を持っています。私たちに信仰を与え、その歩みを始めさせて下さった神は、それを全うさせて下さるのです。

