「神の愛が現れた」
説教要旨(12月20日 朝礼拝)
イザヤ書 第63章 7~10節
ヨハネの手紙一 第3章 1~6節
倉橋康夫
本日のクリスマス礼拝に当たり、ヨハネの手紙一 第3章1~6節から、クリスマスメッセージを聞き取りたいと思います。最初に1節と5節に注目します。<1節 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それはわたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。・・・・・>、とあります。私たちが<神の子>であるということは、何か特別な力や能力を持っているとか、人格的・道徳的に秀でているということではなく、神との結びつきが、どのようであるかという問題です。
そこで、聖書は、神が私たちに「どんなにして愛をお与え下さったか」を見よ、と告げます。その神の愛によって、私たちは神に信頼を寄せ、自分の全てを委ね切る神の子となることができたのだ、と言うのです。この大きな神の愛の現れが、神の独り子・主イエス・キリストです。何故なら、この主キリストによって、私たちが神のみ手に受け入れてもらえる道が開かれたからです。
もし、主キリストがこの地上にお出でにならなかったら、私たち人間の側から神に近づき、神に受け入れて頂くなどということはあり得ないことであって、従って、神の子とされる道は閉ざされたままであったのです。
<5節 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。>、と言われています。つまり、神への道を閉ざしていたものは、<罪>であったというのです。<罪>とは、神に背を向け、何でも自分でできるかのように考え、頼りになるのは自分だけという思い上がり、そして、自分のみを中心とする我がまま・自己中心性のことです。それは、色んな形で、私たちの身に染み付いています。
併せて読んだイザヤ書 第63章では、主なる神は、イスラエルの民を<彼らはわたしの民、偽りのない子らである>として下さり、苦難の中にあっては<彼らを負い、彼らを担ってくださった>けれども、イスラエルの民は、神に背き、神の霊を苦しめる歩みを重ね、主なる神を敵に回すような所業を繰り返したことが指摘されています。けれども、そのような民の歩みを振り返りながら、この預言者は、<わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを。/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。>、と言うのです。
この預言者が心に留めると表明した主なる神の恵みと憐れみと豊かな慈しみは、最終的に、独り子なるイエス・キリストにおいて現実となりました。主なる神が、主イエス・キリストによって、救いのみ業を成し遂げられたのです。主キリストの犠牲を通して、罪を取り除いて下さった、ということです。それ故に私たちは、この主イエス・キリストの御降誕を心から感謝し、喜び祝うのです。クリスマスは、このように「神の愛が現れた」日です。主イエスご自身が、<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。>(ヨハネ3 : 16)、と言われた通りです。
2節に戻ってみますと、<御子が現れるとき>とありますが、これは主イエス・キリストの再臨を指しています。その時、私たちは<御子に似た者となる>と言われます。復活された主イエス・キリストと同じく、復活させられるということです。
「神の愛が現れた」神の独り子の御降誕・クリスマスは、この事実を指しています。そして、主イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちの罪が担われることを指し示しているのです。「神の愛が現れた」私たちは、その事実を既に知っています。それ故に、また、主イエス・キリストの再臨を心から待望することができます。私たち自身の復活の時を待ち望むのです。「神の愛が現れた」このクリスマスの出来事に思いを深め、共に感謝と讃美を捧げたいと思います。

