「神の秘められた計画」
説教要旨(1月3日 朝礼拝)
イザヤ書 第59章 15b~21節
ローマの信徒への手紙 第11章 25~32節
倉橋康夫
本日の個所で、パウロは改めて、<兄弟たち、・・・・・ ぜひ知ってもらいたい。>と、姿勢を正し、ローマの信徒たちに力を込めて語り出します。そして、この是非知ってもらいたいこととは、<次のような秘められた計画>のことである、と言います。パウロはこの「神の秘められた計画」について、<一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。>、と言うのです。イスラエルの民全体ではなく、イスラエルの民の一部の者たちが結託して、主イエスを十字架へと引き渡した。そして、この主の十字架によって、<異邦人全体が救いに達する>ことになった、「異邦人(の数)が満ちた」(直訳)のであり、神のご計画の中にある異邦人が救われたのです。
そして更には、<全イスラエルが救われる>に至る、と言います。この点に関連することが、第11章12節でも語られていました。<まして、彼らが皆救いにあずかるとすれば>、「ましてや、彼ら(の数)が満ちること」(直訳)はどんなであろうか、と。本来のユダヤ人が満ちることは、何とすばらしいことか、と言うのです。本日の個所の場合も、本来の神の民としてのイスラエル全部が救われることを意味します。
そこでパウロは、旧約聖書から引用します。併せて読んだ、イザヤ書第59章です。<主は贖う者として、・・・来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来る>とあります。このことを、パウロは、<救う方が・・来て、ヤコブから不信心を遠ざける>、と言います。これは、主イエス・キリストが、罪を贖う者・救いをもたらす方として、<ヤコブ(イスラエルの民)のうち罪を悔いる者のもとに>来られ、<ヤコブから不信心を遠ざける>、と言うことです。ユダヤ人たちの頑なさは放置されたままではない、と言うのです。主イエスは、十字架上で執り成しの祈りを捧げられました(ルカ23 : 34)。正に、ご自分を十字架にかけ、殺そうとするユダヤ人のため、既に主イエスは祈られたのです。
福音・主キリストによる救いのみ業について言えば、イスラエルの民・ユダヤ人は、神に敵対する者の役割を担ったと言えます。主イエス・キリストを十字架につけたのです。その結果、異邦人であるにも拘わらず、ローマの信徒たちは救いの恵みを受けることができました。しかし、神の選びに関して言えば、イスラエルの民は神に選び立てられた民です。先祖たちが、神の祝福に与ったように、神に愛されている、と言うことができます。神の賜物と招きとを受け継ぐべき者たちだ、と言うのです(29節)。
そこでパウロは更に、「神の秘められた計画」の中心部分とも言うべき点について語ります。あなたがた異邦人はかつて不従順であったのに、今は主キリストの救いに入れられ、神の憐れみに与っている。このことは、あなたがたが不従順であった時既に、神の憐れみを受ける対象とされていたことを意味するし、今不従順な彼ら(ユダヤ人)も、神の憐れみに与る道の途上にあると言うことができる、と。
このように見てくると、「神の秘められた計画」は、ユダヤ人とか異邦人とか差別するものではないのです。つまり、「神の秘められた計画」は、全ての人がその不従順を通して、色々な形で、啓き示され、与えられる救いの恵みのことである、と言えます。自らの不従順・神への敵対を悔いることなしに、主イエス・キリストの救いに入れられる者は1人もいないのです。しかし、この悔い改めの思いが起こる時、神の憐れみが鮮やかに示されます。このように、「神の秘められた計画」は、神が私たち1人ひとりに救いを齎すための憐れみのご計画なのです。私たちはその確かな「神の秘められた計画」の中で、信仰に生きる者なのです。

