「あの人をどう思うか」
説教要旨( 1月 10日 朝礼拝)
詩編 第105編 1~6節
ヨハネによる福音書 第9章 13~23節
伊藤英志
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きます。見えなかった目がどのようにして目が開いたのか、より客観的で合理的な判定を得ようとします。しかし、ファリサイ派の人々も「どうして見えるのになったのか」と問い、「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と迫ります。
「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」。この簡潔な事実をめぐって、人々の間ではナザレのイエスについての意見が分かれていきます。その原因は明らかです。驚くべき出来事の原因ばかりを知ろうとして、その出来事が指し示そうとしている目的を見ることができず、信じることができないからです。
主イエスについて一致できないままの人々は、この一件を信じないという判断を固めるための合理的でもっともらしく聞こえる理由を求めていきます。安息日での偽りの癒しを行う者は、神を冒涜している。目が見えるようになった嘘の証言で人々を惑わそうとしている。そうした判断に至ろうとする人々は、自分を主にしようとします。『自分の判断が正しい、私たちに誤りはない、我々はこの出来事を信じるべきではない』。そこに人々は一致しようとして、以前に盲人であった両親に事実関係を問いただします。「どうして今は目が見えるのか」。しかし、両親も「どうしてかは分かりません」としか答えられません。
こうした人間どうしのやりとりから明らかなのは、神の業が現れた事実が、人間の言葉によって次第に覆い隠されていくということです。一連の出来事において神の業が現れていることが次第に見えなくなっていきます。神の業が現れたことによって、人々の間には人間の言葉による疑いと不信が生じていきます。主なる神を信じているとその口で語っている人々でさえ、自分の言葉や判断によって自分自身を真実なる主にしようとし、神の業に対抗しようとしていくのです。そうした人間の罪ある姿が、十字架へと向かう主イエスを取り巻く人々に映し出されていきます。
生まれつき目が見えない人に現れた神の業とは、ただ目が見えるようになったに留まらないことが、続く24節以下からも明らかです。この人に現れた神の業とは、目が見えるようになって、目を開けてくださった方について信じようとしない人々に、真実を語る者とされたことです。「お前は、あの人をどう思うのか」という問いただしに、確信と信仰をもって「あの方は神のもとから来られた方です」と証言する人にされていった。これこそが、この人に現れた神の業でした。
「あの人をどう思うか―何を語るのか」という問いは、この私たちにも向けられる人間の言葉による極めて今日的な問いただしです。あの人について何かを語るとは、あの人を見る目が開かれ、人々の中へと遣わされ、見えるようになったことを語りだしていく。それが、ヨハネ福音書が第9章で繰り返し告げている「目が開く」という神の業です。このような神の業は、かつてこの私たちにも起こった業であるはずです。今も神の業として起こり続けているはずのことです。
「世界史の教科書にも載っているイエスを、あなたはどう思うのか」、「どのようにして目が開かれたのか」。そうした問いに私たちも答えられるようにさせるのが、今日においても次々に現れ出ている神の業なのです。その答えは、客観的で中立的な言葉でもなく、理路整然とした合理的な説明ともならないでしょう。原因と結果を語ることのみで、神の業を把握することはできないからです。
「あの人をどう思うのか」とは主の日の裁きの座での問いでもありましょう。天から地上に遣わされた主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちが立つことになる裁きの日に備えるための神の業そのものでした。神が成し遂げられた驚くべき御業を信じて思い起こす時、私たちの目も、神の国での栄光に向かって、いよいよ新たに開かれていくのです。

