「神の憐れみによる勧め」
説教要旨( 1月31日 朝礼拝)
イザヤ書 第44章 1~5節
ローマの信徒への手紙 第12章 1~2節
倉橋康夫
本日から、ロマ書 第12章に入りますが、冒頭に、<こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。>、と述べられています。<こういうわけで>とは、これまで語ってきたことに基づいて、つまり神の救いのみ業に基づいて、ということです。神が、独り子、主イエス・キリストの十字架の死(と復活)によって、信じる者に永遠の命への救いを与えて下さったこと(ヨハネ3 : 16)を指しています。
パウロはこれまで、ただ信仰によって救われる、という点を力説してきました。救いに入れられるために、人間に求められることは、信仰以外には何もない、と言うのです。しかし、救われた者は、救われた者としての生き方があります。キリスト者として、日々の生活において、何を言い表すのか、が大切です。本日の聖書の文脈で言うなら、「神の憐れみを受けた人間である」ことを言い表す、と言って良いでしょう。
併せて読んだ、イザヤ書 第44章に、神の憐れみを受ける者たちの喜びと幸いが言い表されています。ここには、神の約束が告げられています。主なる神は、イスラエルの民を見捨てることなく、養い、祝福を与える、と言うのです。そして、そのように神の憐れみを受けた民は、<「イスラエル」をその名とする。>、と言います。「イスラエル」は、神が支配する、神は支配者、の意味であり、神のご支配の下にあることを喜び・感謝する者のことです。<「わたしは主もの」>と告白するのです。
ところで、パウロはここで、改めて<兄弟たち>と呼びかけています。教会で、兄弟姉妹と呼び合う意味の中心は、第8章29節にあったように、主イエス・キリストを長子とする兄弟姉妹である、という点にあります。主イエス・キリストの救いに結び合わされた兄弟姉妹である、ということです。言わば、神の憐れみによって兄弟姉妹とされたのです。エフェソ書に、<神の家族>(2 : 21)とあるように、神の許に呼び集められた共同体ということであって、神に向かって全身全霊を注ぐ家族、兄弟姉妹ということです。従って、それは何よりも、礼拝する群れ、礼拝共同体と言って良いでしょう。それが、「神の憐れみを受けた人間」の群れの在り方、と言えます。
ところで、ここでパウロの言う、<神の憐れみ>とは、神の憐れみ深さのことです。第11章で語られた<憐れみ>という字は、憐れみそのもの、赦し、助け、救いという意味合いを持っていますが、ここでは別の字を用いて、神の憐れみ深さに基づいて勧める、と言うのです。私たちを赦し、救いに入れて下さる憐れみの下に、私たちを見守り、深い配慮をもって導いて下さる憐れみの深さです。この神の憐れみ深さを抜きにして、勧めだけが語られることはあり得ません。キリスト者の生活は、常に神の憐れみに支えられ、導かれるものだからです。だから、パウロは、<神の憐れみによってあなたがたに勧めます>、と言うのです。
「勧める」という字は、誰かを傍近くに呼び、親しく語り、味方となる、という意味で用いられるものです。そのように勧め・励ますものを、それは聖霊である、と主イエスは教えられました(ヨハネ14 : 26)。新共同訳では、この字を<弁護者>と訳していますが、口語訳では、<助け主>と訳しました。また「慰め主」と訳すこともできます。つまり、この<勧めます>という言葉を、「慰めます」と置き換えても良いのです。「神の憐れみによる勧め」は、「神の憐れみによる慰め」なのです。
そこでパウロは、自分を神に献げる生活をしなさい、言います。神の憐れみを受け、神の憐れみ深さの下に生きる時、神に用いられる生活こそ喜びであり、慰めだからです。神の憐れみの下に、慰めに満ちた生活、救われた者の喜びを証しする生活を、共々に進めて参りたいものです。

