「なすべき礼拝」
説教要旨( 2月7日 朝礼拝)
レビ記 第16章 32~34節
ローマの信徒への手紙 第12章 1~2節
倉橋康夫
パウロは、<自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。>と言います。「いけにえ」とは、犠牲のことです。併せて読んだ、レビ記には、贖いの儀式について記されています。正規の祭司職に任じられた者が、年に1度、<イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行う>、とあります。 (その手順については、第16章2節以下を参照)それは、罪の贖い・罪の赦しを受けるために犠牲を献げる儀式でした。それによって、神のみ前に進み出、神を礼拝することが許されるのです。
主イエス・キリストは、そのいけにえの意味をご自分の身をもって、完全に成し遂げられました。ヘブライ書 第9章11節から14節で、主キリストは<御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。・・・・・キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。>、と述べられています。パウロは、<いけにえ>という言葉によって、主キリストの犠牲を思い浮かべていた、と思われます。つまり、キリスト者の生活は、あの主の十字架に堅く結ばれた生活なのだ、と言いたかったのです。
ところで、「献げる」という字は、「傍らに置く」という意味です。自分の体、自分の生活を神に献げるキリスト者の歩みは、どのようなものかについて、パウロは<神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ>と表現して、示している。神に喜んで頂けるものとして、そして、聖なるもの、つまり神のご用に供せられるものとして、更に、生けるもの、つまり生命に溢れたもの、主キリストの命に繋がれたもの、永遠の命に結ばれたものとして、私たちは自分自身を神に献げる歩みをする、と言うのです。
そして、パウロは、<これこそあなたがたのなすべき礼拝です。>、と言います。「なすべき」とは、ロゴスに適ったであり、神の言葉に沿うことです。更に、神それは、神の救いのみ業に結びつくことです。自分の体、即ち自分の生活を神の傍らに置くのが、自分の体を神に献げることです。神の傍らに置くということは、自分が最早自分のものではなく、神のものとされていることを意味します。(ハイデルベルク信仰問答 第1 参照)
従って、主キリストによって救いに入れられ、生かされている者は、既に、神の傍らに身を置いて生きる者です。神に対して、自らを明け渡して生きる者。自分の全て、生も死も、神のみ手の中にあることを知って生きる者。自分の存在は全て、神の救いのみ業に負っていることを告白して生きる者です。パウロは、このように生きることが、正に「なすべき礼拝」を献げることだ、と言うのです。
さて、自分の体を神に献げる歩みは、1人ひとりの具体的な生活の仕方です。けれども、同時に教会としての歩みです。<神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会>(使徒言行録 20 : 28b)と言われています。主キリストの血、主の犠牲、主の十字架によって、神は教会をご自分のものとなさったと言うのです。私たち1人ひとりが主キリストのものとされたことの根底に、群れとして神のものとされた事実があるのです。従って、教会を離れて、個人だけの信仰生活はあり得ません。私たちキリスト者の日々の歩みは、教会の歩みです。それは、孤独な歩みではないことを意味します。信仰の仲間が互いに祈り合い、支え合って進める歩みです。日々の生活を、「なすべき礼拝」として献げ、そして、主の日毎に、集められ、共に公同の礼拝を献げます。この主の日の礼拝もまた、「なすべき礼拝」です。此の週も、神の傍らに身を置く歩みを、喜ばしく始めましょう。

