「正直に答えなさい」
説教要旨( 2月 14日 朝礼拝)
詩編 第9編 8~11節
ヨハネによる福音書 第9章 24~41節
伊藤英志
人々は盲人であった人を再び呼び出して問い詰めます。真実を確かめるというよりも、その人に裁きを下そうとします。全てが見えていて、神を正しくあがめ、神の御心を行っている我々に、正直に答えておいた方が、お前のためになる、と迫っていきます。
その場所は、おそらく神を礼拝する会堂であったはずです。ここでの「正直に答えなさい」とは、文字通りには「神に栄光を帰しなさい」という意味です。偽証せずに、神の御前に真実を語れという決まり文句です。
元盲人が正直に答えます。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。しかし、安息日に起こったこの癒しの業に人々は納得せず、「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と問い続けます。
言い分を聞き入れてもらえない元盲人が答えます。「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。この言葉によって会堂ではナザレのイエスをめぐって論争が始まります。
「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなったはずです」。この元盲人の言葉に圧倒されかけた人々が言い返します。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」。そして、人々は元盲人に罪人の烙印を押して会堂から追い出して、見捨ててしまいます。
このことを耳にした主イエスが、元盲人に出会います。主イエスが探し出して「あなたは人の子を信じるか―天から降って来た者を信じるか」と尋ねます。まだ自分の目でその姿を見たことがない人が申し出ます。「そのお方を信じたいのですが・・・」。
「あなたは、その人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と主イエスの声を聞くや、元盲人は「主よ、信じます」と言ってひざまずき、主イエスを礼拝します。目が見えるようされた元盲人は、神の子、主イエスとついに出会い、このお方を礼拝する者となったのです。
主イエスによって元盲人に現わされた神の業とは、目が見えるようにされただけではありません。自分の身に起こったことが「神のもとから来られた方」によると証言した。そのかどで、罪人として裁きを受けて人々から見捨てられてしまうが、主イエスが探し出してくださり、このお方を礼拝する者とされた。これらの全てが、一人の盲人に現わされた神の業―安息日の神の業なのです。
これらの神の業は、主イエスによる主の日の裁きのさまを指し示しています。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。父なる神は、世を裁くためではなく御子によって世が救われるために、御子イエスを世にお遣わしになりました。その御子イエスは、世にある《人々を裁くために》世に来たのです。
主イエスによる裁きとは、救われるべき人に救いを現わすための裁きです。その裁きは、世に生きる人々に、真の安息―永遠の安息を実現させるためにあります。主イエスがなしとげた地上での業、十字架と復活を知り、そのお方を尋ね求める人は、主の日の裁きの時、決して見捨てられることがないのです。主の日の裁きとは、御心に適う人々を、主がお見捨てになっておられなかった事実を見る時であるのです。
神の業を見ようとせず、神の業に裁きを下して安堵しようとするのが世に属する人々の業です。主イエスが一人の盲人に現わした神の業とは、そうした罪に留まり続けて裁きを免れ得ない者たちの姿をも明らかにしました。
主イエスによって探し出され、「主よ、信じます」と語り、このお方を礼拝する者とされたのはこの私たちの姿でもあります。私たちも、かつて見えていなかった者たちです。しかし、主の日の裁きの時に、神に全ての栄光を帰する言葉を語る者たちとなるために、この私たちの目も神の業によって開かれ、真実が―永遠の安息が見えるようにされたのです。

