「心を新たにし」
説教要旨( 2月 21日 朝礼拝)
エゼキエル書 第36章 25~32節
ローマの信徒への手紙 第12章 1~2節
倉橋康夫
パウロは、キリスト者の生活・救われた者の生き方について語り始め、1節で「なすべき礼拝」について語り、この2節ではこの世に倣ってはならない、と言います。この「倣う」とは、「図式・様相を合わせる」という意味です。この世に支配的な考え方や生き方に、自分を合わせてしまうことです。確かに、自分の体を神に献げる歩みを始めたキリスト者は、この世に倣う生活から自由にされている、と言えるでしょう。
そこで、パウロは、ただ、この世に倣うな、と言うだけでなく、より積極的な勧めをします。それは、<心を新たにして自分を変えていただ>く、ということです。或る人は、「自分の存在の一番深いところにあるもの、本音と言っていいかもしれません。本音を変えるのです。」、と言います。つまり、私たちの生き方の全て、具体的な日々の生活も、また主の日の礼拝も、その全てが本音の歩みとなるのです。
ところで、その際に、パウロは、<心を新たにし>、と言います。「心の改新により」(直訳)です。この「心」という字は、「理性」を意味します。つまり、単なる心情とか心根というのではなく、責任を持って判断する心のことです。或る人は、「心の改新は、新生と同じく、バプテスマにおける聖霊の業としてなされる」、と説明しています。私たち人間の弱さを思う時、聖霊の助けなしに、心の改新も、自分を変えることもあり得ない、と言うべきです。
併せて読んだ、エゼキエル書 第36章で、主なる神は、<26節 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。>、と言われます。これは、主なる神のみ業による再創造の約束です。最終的に、「心を新たにし」て下さるのは、神のみ業・聖霊のみ業です。従って、聖霊によって「心を新たにし」ということになります。
パウロは、聖霊によって心を新たにし、自分を変えていただくことの、目的・目標について、<何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように>なるためである、と言います。ここで、<完全なこと>とは、目的が達せられたそのこと、という意味です。神の目的が達せられたことを指し示しているのです。それは、あの主キリストの十字架の死と復活によってです。この出来事に思いを集中することが、即ち心を新たにすることに他ならず、神に喜ばれることです。私たちの心が、本音が、この世に倣う方向を向くのではなく、神の救いのみ業に向かうのです。
「心を新たにし」とは、このように、自分の心、本音・本心を、主キリストの福音に沿うものとすることです。み言葉によって整えられること、と言っても良いでしょう。つまり、主キリストの福音によって、自分の心を新たにするのです。そして、この「心を新たにする」ことは、不断に続けられる歩みです。み言葉に促され、主キリストの十字架の死と復活の出来事に連れ戻され、私たちは繰り返し、心を新たにするのです。その歩みは、聖霊のみ業に与り、自分を変えて頂く歩みです。そのことによって、私たちは、神のみ心、善いこと、神に喜ばれまた完全なことを弁えて生きる者とされます。
この<わきまえる>という字は、鉱石の純度を試し・確かめるという意味です。叩いたり、火にかけたり、苦労しながら確かめることです。それは、弁えるには苦労を伴うものだ、ということです。涙を流すこともあるし、手傷を負うこともあるでしょう。けれども、私たちキリスト者は、この世に倣い、流されるのではなく、主キリストの救いに堅く繋がれ、神の眼差しの下に生きるのです。此の週もまた、聖霊によって「心を新たにし」、救いに入れられた者として、感謝と喜びに溢れて、信仰の歩みを進めて参りましょう。

