「栄光が神に永遠に」
説教要旨( 1月24日 朝礼拝)
イザヤ書 第40章 12~14節
ローマの信徒への手紙 第11章 33~36節
倉橋康夫
パウロは、キリスト教信仰の根拠・神の救いのみ業と秘められたご計画について、語るべきことを語り尽くして、<ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。>、と絶叫します。この<富>という字は、「豊かさ」と言い換えても良いものです。第9章23節で、<豊かな栄光>:「栄光の富・栄光の豊かさ」(直訳)と言っています。「栄光」とは、「神が神であられることの顕れ・その輝き」です。従って、<豊かな栄光>・「栄光の豊かさ」は、<神の富>・「神の豊かさ」と同じこと、と言えます。
そして、この神の富・神の豊かさについて、第2章4節でも述べられていました。<あるいは、神の憐れみがあなたがたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。>、と。この<豊かな慈愛と寛容と忍耐>も、直訳すると「慈愛と寛容と忍耐の豊かさ」です。つまり、「神の富」とは、神の憐れみであり、その内容は慈愛と寛容と忍耐であり、私たちを救いへと招き入れようとして下さる恵みの豊かさを意味するのです。このような神の憐れみの深さに圧倒されて、パウロは<ああ、神の富・・・のなんと深いことか>、と言うのです。
そして、次に、神の知恵の深さ、知識の深さを讃美します。これもまた、神の恵み深さを讃美するものです。神の知恵について、Ⅰコリント第2章7節で、<神秘としての神の知恵>と言っています。「神秘における神の知恵」であり、「神秘」は、神の秘められた計画です。私たち人間に救いを与えて下さるための神の知恵、あの主キリストの十字架の死と復活に集約された神の知恵です。
また、神の知識の深さについても、ただ、神さまは何でもご存知です、ということではなく、私たちを知っていて下さる、という恵みの知識のことです。神は私たちを知っていて下さり、しっかり捉えていて下さるのです。ガラテヤ書 第4章参照
この神の富と知恵と知識の深淵の前に、今や私たち人間は黙するのみです。<だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。>、とパウロは言います。パウロは論じることを喜んで停止します。<神の定め>、<神の道>を説明し尽くすことなどできないのです。これまで語ってきたことが無駄であった、と言うのではありません。語り続け、考え続けてきた帰結として、神の富と知恵と知識の測り難いことを思い知り、また、神の定め、神の道を説明し尽くすことなどできないことに思い至ったことを、喜び、感謝しているのです。
パウロは旧約聖書の言葉を思い起こします。併せて読んだ、イザヤ書 第40章からの引用です。<34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。/だれが主の相談相手であっただろうか。>、と。神が為そうとすることに対して、人間が口出しをすることができるかのように思い上がってはならない、と言うのです。神を自分の思いの通り動かせるかのように思ってはならない。人間の思いの通り動くとするなら、それは偶像でしかないのです。
そこでパウロは、全てのことが、神のみ心のままに導かれていることを改めて告白します。<36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。>、と。神が天地万物の創造者にいまし、これを守り、導き、そして遂には、神の許へと回復して下さる、と言うのである。これが神のご計画である、ということです。
ここに至って、神の救いのみ業の深みと向き合いつつ、我々人間に残された最後の言葉を語ります。<36 ・・・ 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。>、と。「栄光が神に永遠に」これが、主キリストによる救いに入れられた者の、最後の言葉・讃美です。私たちは、永遠の命を与えられ、神の栄光を永遠に褒め称える者とされているからです。

