「己れを知る」
説教要旨( 2月28日 朝礼拝 )
箴言 第15章28~33節
ローマの信徒への手紙 第12章 3~ 8節
倉橋康夫
パウロは冒頭で、<わたしに与えられた恵みによって、あなたがた1人1人に言います>、と語りかけます。神の恵みを考える時、私たちが立ち帰る原点は、神の救いのみ業、主キリストの十字架の死と復活です。初代教会の人々の合言葉、宣教の言葉は、「主は甦られた」との一言であった、と言われます。或る人は、「キリストの復活は私どもひとりひとりに与えられたいのちの泉です。」と言います。分かり易く、心に沁みる、良い表現だと思います。
パウロはこの恵みによって、<あなたがた1人1人に言います>、と言うのです。「あなたがたの中の1人1人全てに」、「あなたがた」という集団の中の1人1人、誰1人洩らすことなく、と。この「あなたがた」という集団は、教会です。教会は「一つの群れ」です。神の恵みに包み込まれて、教会は存在します。だからこそ、私たちは教会が消滅することはない、と信じることができます。実際には、廃止される教会・伝道所があります。しかし、歴史において存在し、使命を担った事実は残ります。神がそのことを知っていて下さるのです。
ところで、教会は様々な違いや多様性を抱え込みながら、その歩みを進めざるを得ません。教会を構成する個人個人において、或いは、教団を構成する各個教会において。
しかし、ここでパウロが示唆しているように、夫々の違いを尊重しながら、同じ神の恵み・同じ福音で結ばれています。だからこそ、パウロは恵みによって1人1人の個人に語る、恵みに基づいてこそ語り得る、と言うのです。
そこでパウロは、<自分を過大に評価してはなりません>、と言います。「思うべきところを越えて、思い上がってはならない」、と。<思うべき限度を越えて思い上がることなく>(口語訳)、と。私たちには夫々、自分について思う領域・範囲というものがあるのです。つまり、自分について、どのように思うべきなのか、どのように位置づけるのか、という問題です。自分を正しく位置づけるということは、言わば「己れを知る」ことに他なりません。
この「己れを知る」一つの道をパウロは示します。つまり、<神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです>、と。「慎み深く評価する」とは、「慎み深く思えるまでに思う」(直訳)であり、慎み深く思うに至るまで思い巡らす・深く思う、ということです。「慎み深く思う」とは、「健康な心を持つ」ということで、真の謙遜を身に着けることです。
併せて読んだ箴言 第15章には、<28 神に従う心は思いめぐらして応答し/神に逆らう口は災いを吐く。/29 主は逆らう者に遠くいますが/従う者の祈りを聞いてくださる。/30 目に光を与えるものは心を喜ばせ/良い知らせは骨を潤す。31 命を与える懲らしめに聞き従う耳は/知恵ある人の中に宿る。/32 諭しをなおざりにする人は魂を無視する者。/懲らしめに聞き従う人は心を得る。/33 主を畏れることは諭しと知恵。/名誉に先立つのは謙遜。>、とあり、神に従うことについて教え、また、主なる神を畏れ、謙遜を身につけることの大切さを教えています。
そしてパウロは、そのように私たちの思いを深めるのは、<神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて>である、と言います。信仰という共通の物差しを持ちながら、私たち1人1人の歩みには段階がある、と言うのです。今、与えられている信仰によって、「己れを知る」という段階は、更に深く「己れを知る」歩みへと続くのです。その意味では、私たちは常に、「己れを知る」途上の歩みをしていることになります。神の恵みを思い、聖霊なる神の支え導きのよって、より深く「己れを知る」歩みへと進んで参りましょう。

