「一つの体の部分として」
説教要旨( 3月 7日 朝礼拝 )
詩編 第40編 8~12節
ローマの信徒への手紙 第12章 3~ 8節
倉橋康夫
パウロは、キリスト者が自分自身についてどのように思うべきかについて、<信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき>であると言い、そして、何よりも主キリストに結ばれて一つの体とされている者として生きることだ、と言います。教会は主キリストの体である、と言われます。<教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。>(エフェソ 1 : 23)、と。つまり、慎み深い信仰生活の源は、主キリストの体としての生活、教会生活にある、と言うのです。
併せて読んだ、詩編 第40編で、詩編の記者は、<大いなる集会>における、自分の振る舞いについて、主なる神に呼びかけています。大いなる集会において、主なる神からの良いしらせ、神の恵みの御業に結ばれ、主なる神の真実と救いを語り、神の慈しみとまことを語った、と言うのです。この<大いなる集会>とは、「呼び集められた者の集い」であり、礼拝の場であり、また教会を意味します。教会に連なる者は、神の恵みのみ業を原点とし、神の真実と救いを語り続けるものであることを指し示しています。
ところで、パウロは先ず、<5 わたしたちも・・・ キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、・・・>、と言います。主キリストに結ばれて、皆で力を合わせて、一つの体を形づくっている、と言うのです。ここに、キリスト教会の意義が示されています。近頃、教会員の高齢化現象は、どの教会にも見られます。しかし、教会員の高齢化そのものは、神の恵みを現している、と言っても良いでしょう。長い信仰生活の体験は、教会の宝・財産です。<白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。>(箴言 16 : 31)、<力は若者の栄光。/白髪は老人の尊厳。>(箴言 20 : 29)とある通りです。体力が衰え、教会への奉仕もままならない、と嘆く人もいますが、それも与えられたその人の位置・立場です。ヘルマン・ホイヴェルス(元上智大学学長)は、詩「最上のわざ」で、体を使う仕事ができなくなっても、祈りはできる、愛するすべての人のために神の恵みを祈りつつ、神の許に帰るのだ、と言います。
扨て、パウロは、<わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています>、と言います。<与えられた恵み>については、第5章15節で、<しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。1人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと1人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。>、と言われています。この主キリストによる恵みの賜物を与えられ、召され、結び合わされている私たちです。
その上で、私たちが夫々異なった賜物を与えられていることを指摘します。預言、奉仕、教える、勧める、施しをする、指導する、慈善を行う、と。これらの、夫々の賜物が共通の目標を持っています。つまり、一つの体を形づくる、という目標です。そして、私たち各自は、その「一つの体の部分として」存在し、活動することが許されており、求められているのです。それ以上でもなく、それ以下でもありません。ここに、私たち1人ひとりが、謙虚に教会を形づくる道があり、また、責任を担って教会を立てる道があります。私たち1人ひとりが「一つの体の部分として」あることを自覚すること、部分であることに徹することです。
主キリストに結ばれ、そのことによって互いに結ばれ、喜ばしく、教会の歩みを進めていきたい、と思います。主キリストの救いに、共に与っている者として、心の限りに主を讃美する群れとしての歩みを、更に深く味わい、進めて参りましょう。

