「わたしに従いなさい」
説教要旨( 3月 14日 朝礼拝)
イザヤ書 第26章 7~9節
ヨハネによる福音書 第21章 15~19節
伊藤英志
ヨハネ福音書では、ガリラヤ湖での漁に出たペトロたちの前に復活の主イエスが現れます。主イエスは、そこで朝の食事をも整えてくださり、弟子たちと朝食を囲みました。朝の食事の後、主イエスは「あなたはわたしを愛しているか」と問いただし、「わたしの子羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしに従いなさい」とペトロに命じます。
その命令の通り、若き日に漁師だったペテロは、主イエスの羊を世話する務めに生涯を献げ、ローマで捕えられて殉教したと伝えられています。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められて、行きたくないところへ連れて行かれる(18節)」。ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるか、主イエスが告げた通りになります。
私たちはペトロのように殉教を目指しているわけではありません。主イエスに従っていくとは、主イエスを捜し求め、このお方を愛することです。主イエスの言葉と教えに自分自身を委ねていくことです。しかしながら、「あなたはわたしを愛しているか」との問い掛けに、私たちは自信をもって「はい、主よ。私はあなたに従っています」と答えることができるでしょうか。
私たちの実際の日常生活はどこにいても、次から次にしなければならないことに溢れています。目の前のことに追われるだけでその日がすぎ去っているのが現実です。ペトロのように「そのことはあなたがご存じです」と、すっきりしない応えしかできない姿を認めざるをえません。
エルサレムから逃げるようにしてガリラヤに戻り、いつものように漁に出たペトロに、復活の主イエスは、朝、突然現れました。それと同じように、私たちの日常生活にも主イエスは今も現れてくださり、「わたしを愛しているか」、「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしに従いなさい」と告げるのです。
その主イエスの言葉に応えたいと願うのが、イザヤ書にも記されている通り、私たちの魂の願いであるはずです。主イエスに従うことは、どのような状況であっても、このお方を待ち望み、このお方を捜し求めていく決意を再び新たにしていくことなのです。
しかし、実際の私たちは、自分の夢や目標を望み通りに実現させていくことを、心のどこかで求めています。互いに愛し合うことができる人になるよりも、誰にも頼らずに自分のことは自分でできる人、自分の世話は自分でできる人を目指してしまいます。自分の将来を予測しそれに自分の知恵と力で備えを整えることができる人が、成熟した大人の姿と考えてしまいます。
ところが、予想外の事態が私たちを覆うことがあるのは事実です。それに、私たちにはいつまでも避けて通ることができない時が来ます。いずれ年をとると、目が閉ざされ、心の奥底では行きたくないと思っている所に連れて行かれる時です。主イエスとの再会を果たす時です。
その時、人はそれぞれが歩んできた道について問いただされることになります。「わたしに従いなさい」との主イエスの呼びかけは、この時に備えるためにあります。そして、「自分のことは何でも自分でできるようでいるべき」という世の考えとは、正反対のことを示しています。主イエスに従っていくことを心から願うことは、自分の両手を伸ばし、主イエスに帯を締めてもらって導かれていくことを、今以上にさらに望んでいくことなのです。
主イエスに導かれて、ついにたどり着く所は、神の家です。神の家では、復活の主イエスと共に留まり、共に復活の朝の食卓を囲むことになります。そして、どのようにして真の救いがもたらされたかを語り合う家となるのです。この神の家に迎え入れられるためには、それまで握り締めていた全てを手放して、その自分の両手を前に伸ばし、主イエスに帯を締めてもらって導いて頂くことを願い出なければならないのです。
その道は、イザヤ書にある通り、平らでまっすぐな道、全てが整えられた確かな道です。「わたしは道であり、真理であり、命である(14:6)」と告げた主イエスは、今も私たちの名を呼んで、神の家に至る道に導こうとされているのです。

