「賜物を生かす」
説教要旨( 3月21日 朝礼拝 )
詩編 第22編28~32節
ローマの信徒への手紙 第12章 3~ 8節
倉橋康夫
パウロは6節以下で、神から与えられた賜物による働きについて、具体的に述べます。7つの働きのうちから幾つかについて見ていきたいと思います。
先ず、預言です。預言をする者とは、言葉を預かっている者、言葉を託されている者のことです。そして、この言葉とは、神からの言葉、神の言葉です。この神の言葉を、<信仰に応じて>、つまり「信仰に一致して」、主キリストを信じる、その信仰に沿って、神の言葉を語りなさい、と言います。今日の言い方では、説教を指します。
エフェソ書 第2章19、20節で、教会の土台は「使徒と預言者」である、と言われています。この預言者は旧約聖書の預言者のことではなく、キリスト教会の歩みが始まってからの預言者であり、使徒に続いて、主の復活を証言する者です。主キリストの十字架の死と復活を語る、そこに示されている神の恵み、福音を語るのです。この福音に思いを集め、心を1つにして、私たちは礼拝する、神を讃美し、感謝を捧げます。説教は、勿論牧師がそのために立てられていますが、長老もそのために用いられるし、教会学校の教師も、時には、その他の教会員も担当することがあります。
次に、奉仕です。これは、特定の働きのことではなく、教会の務めを全て奉仕と呼んだのです。み言葉に仕える務めから、食事を提供することに至るまで、あらゆる教会のための働きを含みます。(使徒言行録 第6章1節以下参照)教会のための働きは全て、仕える思い、仕える姿勢によって成り立つのです。従って、奉仕は教会に連なる全ての人が成す働きです。夫々できることには違いがあるが、その1つひとつが奉仕なのです。夫々成し得る奉仕に専念しなさい、一生懸命にしなさい、と言うのです。
このように預言と奉仕は、教会に連なる者全てが担う働きである、と言うことができます。併せて読んだ詩編 第22編に、<子孫は神に仕え、/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。>(31、32節)、とあります。神に仕えることは全て、実は神の恵みのみ業を告げ知らせることに結びつく、と言うのです。そのように、教会の歩みは、神の恵みのみ業に結ばれ、神の恵みのみ業を告げ知らせるものとして進められるのです。
そして最後に、「施しをする人」について見ておきます。施すという字は、「分け合う」という意味で、「惜しまず」とは、単純に、無邪気に、ということです。何か特別なことをするかのようにではなく、極自然に分け合うのです。初代教会の実際の姿は、多く持っている者が、持たない者に施してあげる、というのではなく、自分の持っているものを、多くでも少なくても、持ち寄って互いに分け合ったのです。
今日でもこの精神と姿勢は大切にされます。例えば、何かの事業をする場合、私たちは多くても少なくても、献金や品物を持ち寄って行います。バザーをする際、教会堂建築をする際、等々。しかし、その事業によって得たものに対して、誰かが特別な権利を主張することはしません。得たものを平等に分け合います。バザーの収益金を対外献金とするのは、他の教会との分かち合いです。また、教会堂についても、苦労も分け合い、教会堂使用に関して特権を持つ人もいません。このように極自然にするのが教会である、とパウロは言うのです。
ここに並べられている働きは、福音を語ることと愛に生きることの二点に集約できます。そして、このキリスト者の生き方、教会の歩みを可能にするのは、神からの恵みの賜物です。神から頂いた「賜物を生かす」ことによって、キリストの体なる教会が形成されます。<それぞれ異なった賜物>を持ち寄り、生かして、キリストに結ばれる教会を形成するのです。

