「偽りのない愛」
説教要旨( 4月18日 朝礼拝 )
アモス書 第5章11~15節
ローマの信徒への手紙 第12章 9~ 21節
倉橋康夫
本日の聖書個所の冒頭は、<愛には偽りがあってはなりません>という、印象深い言葉です。我々の愛が偽りであってはならない、偽善的であってはならない、と言います。パウロのこの勧めは、私たち人間の愛が偽善に陥り易いことを示唆しています。
ところで、「偽りのない愛」に生きる者たちは、<悪を憎み、善から離れず>にいます。悪を憎むとは、悪を恐れて逃げる、恐れて身を隠す、という意味です。悪には近づかないようにする、といった、消極的な意味の言葉です。しかし同時に、キリスト者は、最早悪に魅力を感じない、興味を持たなくなった、近づいてみたいとも思わない、ということです。
そして逆に、善から離れない、と言います。「離れない」という字は、糊で貼り付けるという意味です。善にぴったりと貼り付けられて、最早離れようがないのです。ですから、善から引き剥がされそうになる時、激しい痛みを感じるようになります。それ故に、悔い改めの心が湧き起こるのです。神の許へと連れ戻されます。
併せて読んだ、アモス書 第5章では、<町の門>で行われる不正を諌めています。<町の門>では、様々な事態や事件に対して判断が下されていました。町の門は、公平な判定のされるべき場所なのです。しかし、実際はそれに反していたのです。それ故、主なる神は、<14 善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。・・・ /15 悪を憎み、善を愛せよ/・・・>、と言われるのです。
扨て、続いて、様々な勧めが並べられています。その中で、<怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい>、と言われます。私たちキリスト者の生き方は、主に仕えることを目指すものです。そして、主なる神への奉仕の原点は、礼拝です。主なる神を礼拝する、主キリストを礼拝する。そこから、整えられて、主が教えられたように、互いに仕え合う歩みへと導かれていきます。
そのように、主に仕える生活は、怠らず励み、霊に燃えて営まれる、と言うのです。怠け者であってはならない。礼拝への参加においても、教会への奉仕においても、互いに仕え合う時にも、と言います。
そして、何よりも、霊に燃えているようにと勧められます。この「霊に燃えている」ことについては、エマオへの途上の弟子たちの経験に通じます。<2人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。>(ルカ24 : 32)、とあります。霊に燃えるということも、主キリストに出会い、み言葉に深く触れることによって、心が熱くなること、と言えます。信仰生活の中心的な経験です。
そして次に、<希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。>、と勧められます。私たちキリスト者は、苦難の中にあっても、希望を与えられ、それ故に喜んでいられる、と言います。苦難を苦難として味わいながらも、神に希望を置くことができる、ということです。神に信頼し続けることができるのです。
それ故に、たゆまず祈るのです。祈りとは、神との対話です。絶えず、私たちは神と話しています。色々なことについて、神と語り合いながら生きております。これが、キリスト者の生活です。だから、どんな苦難の中にあっても、希望を失うことはありません。その神こそ、主イエス・キリストをお遣わし下さった方、あの主の十字架の死と復活を通して、我々を救いに入れて下さった方だからです。
このようにして教会を形作るキリスト者の歩みは、「偽りのない愛」に生きる姿です。自らの愛の貧しさを嘆かざるを得ない私たちですが、聖霊の助けと導きにより、神の愛に結び付けられて、「偽りのない愛」に生きる者として、歩んで行きたいと思います。

