「祝福を祈る」
説教要旨( 4月25日 朝礼拝 )
詩編 第67編 1~8節
ローマの信徒への手紙 第12章 9~ 21節
倉橋康夫
ロマ書 第12章14節以下の部分も、偽りのない愛に生きることの具体的な勧めです。そこで、<14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。>、と勧められます。迫害する者とは、キリスト教信仰に反対する人々のことです。そのことについて、パウロには忘れがたい、決定的な体験がありました。パウロ自身が、キリスト教徒の大迫害者であったことです。しかも、復活の主との出会い(使徒9 : 1 以下)によって、救いに入れられた経験です。
パウロは、<主の弟子たち>を抹殺するために、熱心に追い求めていました。ところが、そのパウロに対して、復活の主は、呪いをもって応じたのではなく、祝福を用意して下さったのです。祝福とは、救いを分かち与えることであり、呪いとは、滅びへと落とすことです。呪われ、滅ぼされても仕方のなかった自分が、主イエスの祝福に与った、という強烈な体験をパウロはさせられました。このことから、パウロは、主イエス・キリストの恵みは、全ての人のために用意されていることを知りました。誰もが、この恵みを受けることができる。仮令、それがキリスト教を迫害する者であっても、悔い改めの機会が永久になくなってしまうわけではない、と。そうであれば、今迫害している者についても、何よりも祝福を祈ることが、キリスト者のあり方ではないか、と言うのです。
併せて読んだ詩編 第67編で、「神が私たちを憐れみ、祝福して下さるように」との求めが繰り返されています。ここには、祝福は神からこそ来るものである、と示されています。そして、神からの祝福を求めながら、「全ての民・諸国の民が、み救いを知り、感謝と喜びに満たされるように」、と祈るのです。自分たちに与えられる祝福が、全ての民へと及ぶように、ということです。
このような、迫害する者のために祝福を祈る生き方は、実は、主キリストの恵みを知っている者にこそ可能なもの、と言えます。主キリストの救いを深く経験して、初めて与えられる心境だからです。
そこで更に、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くという生き方が示されます。喜びを共にする、悲しみを共にする。そのような人を誰もが欲しいし、求めます。主イエスの教えが思い出されます。<だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。>(Mt. 7 : 12)
「黄金律」と呼ばれるものです。
パウロは、そのために大切なことを示します。16節の勧めです。先ず、<互いに思いを1つに>すること、1つの思いに結ばれることです。それは、主キリストによって結ばれること、主キリストの恵みを深く思う思いを共有することです。そして、この主キリストによって結び合わされた者の歩みは、「高ぶることなく、身分の低い人々との交わりの中で進められる」、と言います。主キリストの歩みを思うならば、そのような歩みにならざるを得ないのです。主は、「神の身分でありながら、低く降られ、謙って十字架の死を受けられた」方のです。そこで、救いのみ業が成し遂げられました。
私たちが、高ぶり、思い上がることなどできません。私たちは、「高い所にいることのできない存在であること」を知ることが肝腎です。従って、<自分を賢い者とうぬぼれてはなりません>、と言うのです。
主イエス・キリストは、人間と同じ低きに降りて来て下さり、救いのみ業を成し遂げて下さいました。この主キリストの恵みに結び合わされていることを知るキリスト者は、低くされ、そこにおいて思いを1つにされます。ここに立って、私たちキリスト者は、喜び、悲しみを共にする歩みを進めるし、また、全ての人々に「祝福を祈る」歩み、そして、迫害する者に対してさえ、「祝福を祈る」歩みへと導かれるのです。

