「すべての人と平和に」
説教要旨( 5月2日 朝礼拝 )
イザヤ書 第32編 15~20節
ローマの信徒への手紙 第12章 9~ 21節
倉橋康夫
本日は、ロマ書の17、18節に注目します。先ず、<17 だれに対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい>、と言います。<善>とは、 品の良さ・美しさを意味し、神のみ旨に一致していることです。神が良しとして下さる生活は、誰が見ても品位のある、美しい生き方になる筈だ、と言うのです。
逆に、悪に対して悪をもって返すのは、醜い姿と言うべきです。そこでは、争いが起こります。或る人は、争いは人間に自然に備わっている性質だ、と言います。それは、自分が神であるかのように振る舞いたい、と思っているからだ、と言うのです。そのために、小さな争いから、大きな戦争までを惹き起こします。しかし、人間は神にはなり得ません。私たちキリスト者は、罪を告白し、悔い改め、神のように振る舞うのではなく、神に喜ばれるように生きることを目指す者とされました。
パウロはここで、<すべての人の前で善を行うように心がけなさい>、と勧めています。神の良しとされる、美しく品位ある生き方を、<心がけなさい>、と言うのです。「心掛ける」とは、 前もって良く考えておく、ということです。それは、祈ることである、と指摘する人がいます。祈りが全てに先立つような生活、を身につけることです。自分なりの決意・決心も大切ですが、善を行うためには、神の助けを祈り求めることが、何にも増して重要なこと、と言えるでしょう。
そして更に、<18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。>、と言い換えます。つまり、<すべての人の前で善を行う>とは、言い換えるならば、<すべての人と平和に暮らす>ということだ、と言うのです。平和に暮らすためには、何よりも平和を願う気持ちが必要です。しかし、既に見たように、人間には、平和を願うより、ぶち壊してしまう傾向のあることを、パウロは知っております。そこで、パウロは、<できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい>、と勧めるのです。できれば(もし、できることなら)、せめてあなたがたは(あなたがたの方からは、あなたがたの側としては)、全ての人に対して、平和に生きるように、と言うのです。私たち人間の限界を思わされます。しかしあなた方は、キリスト者として、平和を保つことができる筈である、と指摘します。キリスト者には、揺るがない平和が与えられており、その平和に迎え入れられているからです。
併せて読んだ、イザヤ書 第32章に、<16 ・・・・・ 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。>、とあります。ここで、神の正義によって齎される、全き平和・平安について告げられています。これは、究極的な意味において言われているのです。つまり、主イエス・キリストによる救いのみ業によって、信じる者に与えられる、平和・平安を指し示しているのです。そして、それは第一義的には、神との平和であり、神との和解です(ⅡCor. 5 : 18、19)。主キリストによって、私たちは、神との平和を得ております。
そこで、パウロは、<すべての人と平和に暮らしなさい>、と勧めます。飽くまでも、「すべての人と平和に」を願っています。私たち人間の限界を十分に弁えつつも、なおその上で、「すべての人と平和に」、と。それは、私たちキリスト者は、神との和解を得ているからです。主キリストによって神と和解を与えられた者として、平和に暮らす、平安の内に生きることができるからです。この福音の故に、私たちは飽くまでも、できる範囲という限界がありながら、「すべての人と平和に」、を目指します。聖霊の神の支え導きを祈り求めつつ、福音を証しする歩みを続けて参りましょう。

