「復讐からの解放」
説教要旨( 5月16日 朝礼拝 )
申命記 第32章35節
ローマの信徒への手紙 第12章 9~21節
倉橋康夫
ロマ書のこの長い段落を読み進んできて、最終回です。本日は、19節からですが、パウロはローマの信徒に対して、改めて<愛する人たち>、と呼び掛けます。そして、自分で復讐するな、と勧めます。「復讐する」には、「罰する」、「裁く」という意味もあります。自分の方が悪いにも拘わらず、しかし腹の虫が治まらないから仕返しをする、といったことではなく、罰するとか、裁くかように、復讐するという場合です。
パウロは、<神の怒りに任せなさい>、と言います。人間が、復讐したいと思う時、自分が正しいと考えて憤っている場合があります。しかし、復讐を求めるような憤りであるならば、その場所を神の怒りに明け渡しなさい、と言うのです。「復讐する」に、罰する、裁く、という意味があるように、罰し、裁くのは神のみの為し得ることです。人間が自分の正しさを主張し、自分の立場を貫こうとした結果、様々な悲惨な事態を招く事例は、世界史において、また個人史において数知れないところです。
私たちは、ここでも、あの主イエス・キリストの十字架の出来事を思い起こすべきです。あの出来事は、人間が、自分たちの正しさを振り回し、怒りを我がものとして振る舞った結果でした。或る人は、「主イエスの十字架は、人間の怒りの具体的な、究極的な表現です。」、と言っています。主の十字架を見上げる時、私たちは、自らの間違った怒り、罪の姿を映し出されます。
そこでパウロは、併せて読んだ、次の申命記 第32章35節から引用します。
<わたしが報復し、報いをする。
彼らの足がよろめく時まで。
彼らの災いの日は近い。
彼らの終わりは速やかに来る。>
ここでは、自らを正しいとし、傲慢に振る舞う者たちの滅びをも指し示しています。罰すること、裁くことのできる方は、主なる神のみであることが示されています。
このことは、主イエス・キリストの十字架の出来事にも妥当します。それは、人間の罪の姿を映し出すと同時に、そこに神の怒りそのものが重ね合わさる出来事だったからです。つまり、人間の怒りが越権して、主イエス・キリストを十字架に架けた出来事において、神の裁きの業が遂行され、罪を罰する方は神のみであることが貫かれたのです。神のみ子が十字架につけられ、殺された出来事が、実は、父なる神が、み子において人間の罪を罰せられた・人間の罪の清算をされたみ業だったのです。
神の怒りによる復讐・裁きは、私たち人間こそが受けるべきものでした。にも拘わらず、神はみ子にそれを負わせ、私たちには赦しを与えて下さいました。正当に復讐し得る方が、それをされなかった。それどころか、赦して下さった。ここに、私たちの「復讐からの解放」があります。それは、神の復讐・裁きからの解放である、と共に、私たち自身の復讐心からの解放でもあります。思い上がりからの解放です。
そして、そのように、神の恵みの許に生きる者の生き方について、「敵の頭に炭火を積む」(箴言 第22章21、22節)を引用します。パウロは次の21節で、<悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。>、と言うように、<善>を行うことを考えているのです。虚心坦懐に、単純な気持ちで、助けの手を差し伸べるように、と。その結果、相手は<燃える炭火>を、頭に積まれることになる、と言います。相手が苦しい思いをすることですが、「炭火を頭に積む」とは、悔い改めを促すことを意味しています。つまり、相手が苦しむのは、悔い改めの苦しみを味わうことであり、結局は救いへの備えとなることです。
このように、「復讐からの解放」は、私たち自身の救いであり、そしてまた、私たちが高ぶりから解放され、そして、全ての人々を神の恵みへと招く歩みとなるのです。

