「聖霊の証印を受けて」
説教要旨( 5月23日 ペンテコステ礼拝 )
イザヤ書 第33章13~21節
エフェソの信徒への手紙 第1章11~14節
倉橋康夫
弟子たちは、主イエスの十字架の死と復活という、続けざまに起こった出来事に遭遇して、少なからず混乱していたと思われます。ところが、弟子たちの戸惑いや躊躇を断ち切る出来事が起こりました。それが、聖霊降臨です。弟子たちは、聖霊に導かれて、<神の偉大な業>を語り出しました(使徒2 : 11)。人々が、主の十字架の死と復活という出来事を、どう取ろうと、信じようが信じまいが構わない、語らずにいられなかったのです。このようにして、キリスト教会の歩みが開始されました。
本日のエフェソ書で、パウロは、<11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。>、と言う。私たち・教会は、神の国を受け継ぐ者とされた、ということです。しばしば言われるように、神の国は「神のご支配」を意味します。私たち・教会は神のご支配を喜び、服従します。神との交わりに生きることを喜ぶのです。
そして、<13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押された>、と言います。エフェソの信徒たちも、変えられた、主イエス・キリストという方において、と。つまり、主の十字架の死と復活という出来事を通して、真理の言葉、即ち救いをもたらす福音を聞いて、信じた、と言うことです。主キリストの出来事、十字架の死と復活の出来事から真理の言葉が響く、救いをもたらす福音・良き知らせが、響き渡ったからです。それは、罪の赦しを得て、神との交わりに迎え入れられる、神と共なる歩みが与えられる、ということです。
そのように、主キリストを信じる中で、<約束された聖霊で証印を押された>、と言います。聖霊のみ手のうちに生かされているあなたがたに、証明印が押されているのです。神の国を受け継ぐべき者、という証明印です。また、聖霊は、教会が、キリスト者が、<御国を受け継ぐための保証>である、とも言います。神との全き交わりへと確実に守り導く、ということです。既に今、迎え入れられている、神と共なる生活の完成です。教会は、キリスト者は、今既に与えられている、幸いな生活を喜び味わいつつ、更に、将来の完成の時を待ち望みつつ歩んでいるのです。
併せて読んだイザヤ書 第33章では、聖霊のご支配に身を委ねる者の姿が示され(15、16節)、更に、「永遠のエルサレム」を指し示しています。<シオンを仰ぎ見よ、彼らの祝福の都を。/あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい。移されることのない天幕。/その杭は永遠に抜かれることなく・・・>(20節)、と。
扨て、パウロは、<こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり>、と言います。<神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会>(使徒. 20 : 28b)と言われる通りである。教会は、既に神のものとされている、という面と、将来において神のものとして完成される、という未だの面とを併せ持ちます。既にと未だ、の只中にあって、聖霊は教会の歩みを確かなものとして下さいます。
このように、私たちは、「聖霊の証印を受けて」、聖霊の保証の下に、教会の歩みを進めます。この歩みは確かなものであり、慌てたり、不安になったりする必要はありません。教会は、聖霊のみ手の中に置かれているからだ、とパウロは言います。神と共に生きることの幸いを喜び、その素晴らしさを人々に伝えるために、キリストの福音を証しする歩みを進めましょう。「聖霊の証印を受けて」、どのような中にあっても、いつも変わらぬ確かな歩み、福音を証しする生活を、生涯続けていきたい、と思います。

