良心に従って」
説教要旨( 6月6日 朝礼拝)
ダニエル書 第2章17~23節
ローマの信徒への手紙 第13章1~7節
倉橋康夫
本日のロマ書 第13章の冒頭に、<人は皆、上に立つ権威に従うべきです。>、とあります。そしてパウロは、<神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの>だ、と言います。驚くべき大胆な発言であり、また権威を託されている者に対する、ラディカルな問題提起、と言うこともできます。
併せて読んだ、ダニエル書 第2章は、ダニエルが、バビロンの王・ネブカドネツァルの夢解きに際して、捧げた祈りであり、王を立てるのも、王を退けるのも、神のみ旨によるものであることを、告白しています。王の権威は神に由来するものであるとの明快な表明です。問題は、その権威を託された者が、<神に由来する権威>を託された、と自覚しているかどうかが問われる、ということです。その観点が欠落すると、所謂「権威主義」に陥ってしまうのです。
扨て、そこで、神に由来する権威については、<逆らう者は、神の定めに背くことになり、・・・ 自分の身に裁きを招く>、と言います。ここに、1つの問題が浮かび上がります。それは、本来の権威の所有者である神のみ旨に沿っているかどうか、という問題です。或る人は、「神がそれをお望みにならなくなれば、彼らの権威は権威ではなくなってしまうということ・・・・つまり、自分に独自の権威があるかのように思えば、それは、自分を神の座に置くことになります。また、それを忘れて、権威を尊敬すれば、偶像崇拝となってしまう」、と言っています。つまり、神のみが神であることが第一のことなのです。従って、4節で、権威者は神に仕える者、と2度繰り返して言われます。「なぜなら、彼は神の僕だからである。」(直訳)、と。
ところで、3節以下では、実際の為政者との関わりについて述べています。<支配者>、<権威者>と言って、政治的に支配する者、具体的にはローマ皇帝を頂点とする支配層を指している、と考えられます。この手紙が書かれた当時(56年頃)、ローマ帝国によるキリスト教徒迫害は未だ起きていませんでした。ローマにおけるキリスト教会の歩みは、始まって間もなく、ローマの教会の実態は、あまり知られていなかったのです。そこでパウロは、支配者、権威者を、神の僕である、と位置づけ、前提として、基本的に従うべきである、と指示します。
しかし、剣を帯びる支配者・権威者が、主イエス・キリストを十字架につけて、殺した事実を、私たちは思い起こさざるを得ません。主イエスご自身も、<剣を取る者は皆、剣で滅びる>(マタイ26 : 52)、と警告されました。剣を取る者とは、剣に頼る者のことです。そしてまた、主の十字架は、主を十字架につける者の罪を赦す出来事であったことを、私たちは知っています。
そして、パウロは<権威者は神に仕える者>であるのだから、<良心のために>従うべきである、と勧めます。<良心>とは、「共に見ること」が原意です。神・主キリストが、共に見て下さるのです。ここの<仕える者>の語幹には、礼拝する、の意味があります。福音宣教者という場合にも用いられます。神を礼拝し、神の言葉を伝える者という意味合いを持っているのです。そのような権威者には、<良心のために>従うのです。
私たちの場合に当てはめるなら、果たすべき義務を果たしつつ、「良心に従って」証しを立てるように、との勧めです。この「良心に従って」ということが、私たちの判断の基準となるのです。「良心に従って」事柄を判別するということは、正に主の十字架の許で、事柄を見ることに他なりません。人間の罪を深く見据えつつ、政治の世界に対しても、あらゆる人間社会のしくみにおいても、主の十字架の恵みを証ししていくのが、私たちキリスト者の歩みなのです。

