「あなたは神に出会う」
説教要旨(7月11日 朝礼拝)
申命記 第4章15~32節
マタイによる福音書 第11章25~30節
橋本いずみ
「あなたは、神に出会うであろう」モーセは、神の民に苦難の中で神と出会うときが必ずやってくることを告げます。
神の民には、約束の地に入って偶像礼拝に注意しなければならないことが教えられます。ここで「拝んではならないもの」として挙げられているものは、神が言葉によって創造されたものです。
この地に存在する形あるものは、時にわたしたちの目には神のように見え、拝みたくなるような気持ちになることがあります。そして、神に造られたもの美しさに触れる時、それを自らのそばに留め置きたいと思ってしまいます。自分の支配下に美しいものを置いておきたいという気持ちは、自分が神となろうとすることに繋がっていきます。
神は、像をつくることを禁じておきながら、それを神の民が守らなくなるようになると言われます。現に、神の民は、約束の地に入って、他の神々を拝むこととはじめ、主なる神が悪と見なされることを行うようになります。そのような神の民に対して、神は怒りをあらわにされます。それは、神の民にとっての現実であり、苦しみのときになりました。
わたしたちも苦しみの日々を生きていると思います。それは言い換えるならば、罪の現実と言ってもいいかもしれません。わたしたちは、神の導きによって、洗礼を受け、神の民の一員としていただき、神の約束を与えられて、神の恵みの中を生きて来たものです。そのわたしたちがしてしまったことは、自分に都合のよい像を形作ることであり、神の目に悪と見なされることであったと思うのです。
そのような神の民に、罪の現実の中で、嘆き苦しみ続けるのではなく、そのところから、神を求めることを神はお望みになるのです。
神は、罪を犯してしまったわたしたちを見放されるお方ではなく、罪のただ中にあって、神と出会うことを求め、そこにおいて神を見いだすことを願われるのです。
このことを願う主なる神は、わたしたちの罪のために、主イエスをこの世にお与えくださいました。併せて読んだ新約聖書で、主イエスは「疲れたもの、重荷を負うものは、わたしのもとに来なさい。」と招かれます。このように語られる主は、わたしたちの罪を代わって負って、十字架に掛かられる主です。十字架は、罪が裁かれるところであり復活へと繋がるところです。
わたしたちの罪の現実—苦しみの現実は、主の十字架のもとに置かれなければなりません。この地に生きる間、わたしたちは罪と苦しみの現実を負いつつ生きていくことになります。けれども、わたしたちが生きる罪と苦しみの現実は、既に主が復活させられ、克服してくださったその道の途上にあることなのです。
そこで、さらに主イエスは、片方に主イエスがおられる軛を負いなさいと、主イエスとともに歩むものとなりなさいと言われます。
申命記においては、「あなたがたは、苦しみのときに、あなたはあなたの神主のもとに立ち帰る」と告げられました。苦しみのときは、神からの罰として与えられるのと同時に、わたしたちが神と出会うために与えられたものです。
神に出会うとき、それは、わたしたちが神に立ち帰り、その声に聞き従う時です。神は今日、苦しみのただ中にあって、御言葉を通して神に出会うことを得させてくださいました。神を礼拝し、神との出会いを与えられたわたしたちは、主の御声に従って歩む者でありたいと思います。
そして、主イエスがこの安らぎを与えるために歩まれたように、わたしたちも苦しみの中にあっても安らぎがあることを伝えていく者となりたいと願います。
主の軛を担うことで、主は、わたしたちを十字架から復活へと至る道へとわたしたちを誘ってくださいます。

