「我らは主のもの」
説教要旨( 7月 25日 朝礼拝 )
イザヤ書 第45章 22~25節
ローマの信徒への手紙 第14章 1~12節
倉橋康夫
本日のロマ書の7節に、<わたしたちの中には、だれ1人自分のために生きる人はなく、だれ1人自分のために死ぬ人もいません。>、とあります。私たちキリスト者の生涯は全て、主キリストのため、主なる神のためのものだ、と言うのです(8節a)。パウロはここで、<わたしたちの中には、だれ1人>と言って、キリスト者全て、例外なく、自分のためなのではなく、主のために生き、主のために死ぬ、そのように一生を歩み抜くのだ、と言います。
何か特別な仕事をする、ということではなく、私たちの生き方の全てが、「主のため」なのです。どんな働きをするかではなく、どのように生きるか、ということです。<従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。>、と言います。ハイデルベルク信仰問答の「序 唯一の慰め」が思い起こされます。この問1「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ1つの慰めは、何ですか。」の答えは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。・・・ したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のためにいきることのできるように、して下さるのであります。」です。
パウロは言います。<9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。>、と。主キリストは十字架の死と復活によって、<死んだ人>と<生きている人>、全ての人の主となられた、と。但し、全ての人とは、可能性であり、現実ではありません。主キリストを拒絶する者は、主のものとされることも拒否しているからです。
いずれにしても、私たちが、主のものとされるために、神のみ子が十字架に死に、そして復活させられる、という出来事が必要だった、ということです。このようにして、私たちは、主キリストのものとされました。従って、主のために生きるとは、主キリストのもの、主なる神のものとして生きる、ということです。全てのキリスト者に共通して言えることは、主のものとして生きる、主のものとされているその慰めに生きる、ということなのです。色々なことができる時もあれば、殆ど何もできなくなることもあります。けれども、主のものとされている喜びは、常に信仰者を包み込んでいます。
それなのに、何故兄弟姉妹を裁くのか、侮るのか、とパウロは再び私たち人間の不遜な思いを問題にする。そして、<わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。>、と言います。裁き得る方は、神のみであること、そして私たち自身は、裁かれる側にあることに、気づかせようというのです。そこで、併せて読んだイザヤ書から引用して、<「主は言われる。/『わたしは生きている。/すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」>、と言います。主なる神のみ前において、全ての膝がかがみ、全ての舌が讃美する、と。礼拝する群・礼拝共同体なのです。私たちは、何よりも、礼拝する群れであることを指摘します。
そして、裁きの座については、<自分のことについて神に申し述べることになる>、と言います。「申し述べる」とは、心を開いて洗いざらい話すことです。キリスト者にとって、裁きの座は、主キリストの執り成しを得て、自分の全てをさらけ出す場です。私たちは、主のものとされて、裁きの座に向かって歩む群れです。主が伴って下さる、そして、養って下さいます。「我らは主のもの」と言ってはばかることはありません。それが許されている群れです。「我らは主のもの」 この確信の下に、与えられた信仰の歩みを共々に進めて参りましょう。

