「愛に従って歩む」
説教要旨( 8月 1日 朝礼拝 )
イザヤ書 第53章 6~ 10編
ローマの信徒への手紙 第14章13~23節
倉橋康夫
パウロは、ここで改めて、<13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう>、と言います。これまで、信仰の弱い人は裁き、強い人は軽蔑する・侮る、と区別していたのを、裁くという言葉だけで表現するのです。<互いに裁き合わないように>、と。主イエスが山上の説教で既に教えておられたこと(マタイ7 : 1以下)を、パウロも知っていたのでしょう。パウロはここで、人間の裁く心を問題にします。弱い者、強い者の区別と関係なく、互いに裁き合う心を捨てよう、と。
ところで、<つまずきとなるもの>と<妨げとなる物>を取り上げます。前者は、偶然的な物で、道端の石ころなどのことです。後者は、意図的なもので、落とし穴などのことです。どちらも他人の歩みを躓かせ、妨げるのです。そのようなことにならないように、兄弟姉妹に対して十分に配慮することを<決心しなさい>、と言います。
そこで、食べ物のことに即して、話を進めます。<14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。>、と言います。マルコ福音書 第7章で、主イエスも同様のことを指摘しておられます。
けれども、問題は、ある食べ物を汚れたものだ、思い込んでいる人に対してどう振る舞うか、ということです。その人にとっては、汚れている、食べてはいけない、と思っている以上は、その食べ物は汚れたものとなっているからです。ここでは、何が正しいか、という議論ではありません。
パウロ自身としては、食べ物に惑わされない生き方が、キリスト者の自由な生き方だと考えています。けれども、それは他の兄弟姉妹に押し付けることではないのです。<あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。>、と言います。兄弟姉妹が、信仰の友が、心を痛め、苦しむのをそのままにして、自分の好きなように振る舞うとするならば、あなたはもはや愛に従って歩んではいない、と言うのです。
<食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。>、は大げさな表現のように思えます。けれども、食べ物ごときによって、躓き倒れてしまうこともある私たち人間の弱さ・脆さを、パウロは知っているのです。信仰の仲間を大切にしながら、共に歩む、そこに信仰者の群れの姿があるのです。それが、「愛に従って歩む」ということだ、とパウロは言います。
そこで、パウロが指摘することは、<キリストはその兄弟のために死んでくださった>、という事実です。パウロが、キリスト者としての生き方を考える場合、常に見据えていたことは、主キリストが私たちの救いのために死んで下さったことです。
併せて読んだイザヤ書 第53章6節以下は、苦難の主の僕の姿を映し出しています。ここに、主キリストの死の意味が指し示されている、と言えます。この主キリストの十字架の愛に結ばれて生きるのが、キリスト者の生き方である、と言うのです。従って、「愛に従って歩む」とは、主キリストの愛によって歩むということに他なりません。
パウロは、<キリストはその兄弟のために死んでくださった>、と言います。ここでは、「その兄弟のためにも」となっていません。私たちもまた、主は自分のために十字架に架かって下さった、と受け止めているところです。
人間的な弱さ・欠点を抱えながらの私たちの歩みです。けれども、主キリストの十字架と復活という出来事、その神の恵み・救いに入れられた者たちの群れとしての歩みです。そうであるからには、「愛に従って歩む」群れなのです。上よりの助け、導きを祈り求めつつ、「愛に従って歩む」ひとり1人として、「愛に従って歩む」キリストの教会として、共々に進んで参りましょう。

