「神の国は義と平和と喜び」
説教要旨( 8月 8日 朝礼拝 )
詩編 第16編 7~11節
ローマの信徒への手紙 第14章13~23節
倉橋康夫
パウロは、<17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。>、と言います。ここで、パウロは「神の国」という言葉を使っています。ロマ書で、ここだけで用いられます。神の国とは、「神の支配」と訳すこともできます。パウロは、主キリストによる神の恵みに結ばれていることを、神の国・神の支配と言い換えたと考えられます。
そして、神の国は、<聖霊によって与えられる義と平和と喜び>である、と言います。神の国は義。義とは、神のみ前において、良しとされることです。既に、語られていたように、私たちにとっては、信仰による義以外にはありません。主キリストによる救い以外にはないのです。正に、主キリストによる神の恵みのご支配の下に、迎え入れられることに他なりません。神の国は平和。このことについても、人間にとって、神の許に迎え入れられること以上の平和・平安はありません。「主よ、我が魂はあなたの懐に憩うまでは安きを得ない」、とアウグスティーヌスが言った通りです。そして、この平和は、人と人との平和をも齎します。そして、神の国は喜び。神との関係、人との関係が修復され、満たされた時、真の喜びがある、と言うことができます。神の国は、いつまでも変わることのない喜びを味わわせるものなのです。
このような神の国は、主キリストの名によって集められた教会を意味している、と考えられます。つまり、「教会は義と平和と喜び」だ、と言うのです。しかし、現実の教会の姿は、多くの欠けや破れを抱え込んでおり、確かに、神の国と同一視することはできません。けれども、教会の歩みは、義と平和と喜びを約束された歩みなのです。十全な意味で、「神の国は義と平和と喜び」と言い得るのは、終末の完成の時である、と言うべきでしょう。しかし、その確かな約束の下に、私たちの教会の歩みがあります。しかも、義と平和と喜びを、部分的ではあれ、既に味わいながらの歩みです。
併せて読んだ、詩編 第16編には、神のご支配に身を委ねて生きる者の幸いが謳われています。正に、義と平和と喜びに満たされている者の姿があります。<8 わたしは絶えず主に相対しています。/主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。/9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。/からだは安心して憩います。・・・ /11 ・・・わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の手から永遠の喜びをいただきます。>、と。この詩編の記者が謳いあげた、喜びが主キリストによって成就したことを、パウロは指し示している、と言えます。私たちは、神のご支配の中に置かれ、また、主キリストが共に歩んで下さっているので、この喜びを今味わうことができます。
扨て、<18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。>、と言います。キリスト者となった者は、主キリストに仕える者だと言います。ここの「仕える」という字は、奴隷として仕えることです。主キリストのものとして生きる、ということです。このように、義と平和と喜びに生きるキリスト者の生活は、神に喜ばれ、人々にも信頼されます。そこで、19節。 <19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。>、と言います。<互いの向上に役立つこと>とは、どちらかを排除するのではなく、強い者も弱い者も1つの体として建て上げられることです。そこに、義と平和と喜びに生きる教会の姿があります。
「神の国は義と平和と喜び」。このことを、私たちの教会が証しすることができるのは、聖霊に支えられ、導かれる時です。弱い私たちの歩みですが、聖霊の助けを求めつつ、「神の国は義と平和と喜び」であることを味わいながら、その証しを立てる教会として、共に歩んで参りましょう。

