「何を求めているのか」
説教要旨(3月27日 朝礼拝 )
詩編 第27編7~10節
ヨハネによる福音書 第 1章35~42節
倉橋康夫
序文・プロローグが終わって、福音書の物語が始まります。
そこで最初に語られるのは、洗礼者ヨハネのことです。ヨハネの洗礼運動を調査するために送られて来た<祭司やレビ人たち>が、ヨハネに問いかけます。<彼らは、洗礼者ヨハネに、<「あなたはどなたですか」>、と質問します。それに対するヨハネの返答は、<「わたしはメシアではない」>というものでした。このようにヨハネが返答したのは、ヨハネをメシアと誤解する動きのあったことを意味します。しかし、<彼は公言して隠さず>、きっぱりとそれを否定し、拒否します。
そこで、彼らは次に、<「では何ですか。あなたはエリヤですか」>と尋ねます。預言者エリヤが神の裁きの日の先駆者として来る、との待望があったからです。マラキ書 第3章23、24節参照。これに対しても、ヨハネは、<「違う」>の1言で退けます。そして、更に続く質問の、<「では、あの預言者ですか」>についても、<「そうではない」>と否定するのです。あの預言者とは、申命記 第18章15~18節に約束されているように、終末時に登場する、モーセのような指導的預言者のことです。
洗礼者ヨハネは、自分は決して「終末的救済者」でもないし、その脇役的な者でもない、ときっぱり告げます。しかし、主イエスご自身は、洗礼者ヨハネについて、<預言者以上の者>(マタイ 11 : 9)、と高く評価され、また、<現れるはずのエリヤ>(マタイ 11 : 14)と言われ、<エリヤは既に来た>(マタイ 17 : 12)とも言われています。洗礼者ヨハネをそのように位置づけ、評価することは正当です。ヨハネの生涯が、そのことを証ししているからです。
ヨハネは、第3章30節で、<あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」>、と言っています。しかし、ここにこそ、主キリストが、<預言者以上の者>と呼ばれた理由を見ることができるのです。「わたしは・・・・・ではない」、と言うことによって、自分が何者であるかを言い表したヨハネは、最後に、もし「わたしは、・・・・・である」と言うとするならば、「主の道をまっすぐにせよとの声」である、と言います。
併せて読んだ、イザヤ書 第40章 3節に、<呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ野に広い道を通せ。>、と記されています。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、洗礼者ヨハネは、「荒れ野で呼ばわる者」と言いますが、ヨハネ福音書だけは、「声」である、とのヨハネ自身の言葉として伝えています。自分は、声を発する主体ではなく、声を発する方は他におられ、その方が響かせて下さるならば、自分の全てを以って、その方のみ旨を指し示す声となる、ということです。そして、その声は<『主の道をまっすぐにせよ』>、と告げるのです。メシアをお迎えするために、道備えをせよ、と言うのです。
続く、洗礼に関する問答においても、ヨハネは、自分は「水」で洗礼を授けるが、来るべき方について、<わたしはその履物のひもを解く資格もない>程の方である、と証言します。「来るべき方」は“霊”的な洗礼を授ける、との含みがあります。<「・・・ あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」>、と告白します。この方がおられるのでなければ、ヨハネの洗礼は意味をなさないのです。
洗礼者ヨハネは、その方をお迎えする準備をさせるために、「主の道をまっすぐにせよとの声」なのです。その方とは、言うまでもなく主キリストです。その声は、今なお、荒れ野なる全世界に、荒れ野なる人々の内面に向かって、そして、教会においても響き渡る声です。主をお迎えする最上の準備とは、真実なる悔い改めに他なりません。信仰の歩みを更に進めて参りましょう。

