「あの方は復活された」
説教要旨(4月 4日 朝礼拝 ・イースター礼拝)
イザヤ書 第 8章23b~第9章 1節
マタイによる福音書 第28章 1~20節
倉橋康夫
本日のマタイ福音書の最初に、<安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう1人のマリアが、墓を見に行った>、とあります。夜明けとともに安息日が終わるのを待って、一刻も早く、主イエスの許に行きたかったのです。マタイ福音書は、女性たちが何をしに墓に向かったのかを示していません。2人のマリアたちは、ただ主イエスの遺体の傍に行きたいだけであり、打ちひしがれ、絶望の中にありました。
ところが、墓に着くと、墓の石が地響きを立てて転がり、<主の天使>が現れました。天使は、マリアたちに驚くべき事実を告げます。<5 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。>、と。
この天使の<恐れることはない>との言葉は、主イエスを失って直面しているマリアたちの恐れ・絶望に対する慰めです。また、<あの方は、ここにはおられない>と。主イエスは最早、墓の中にはおられない。「墓」は、死の力を意味します。主イエスは、死の力から解き放たれた、と言うのです。
そして、<かねて言われていたとおり>、主イエスは復活された、と言います。<復活された>は、原文では「復活させられた」です。主イエスの復活は、父なる神のみ業であることを指します。主イエスがかねてより言われていたことは、「十字架につけられて殺されることと、人の子は3日目に復活すること」でした(16 : 21、17 : 22~23、20 : 18~19)。この2つのことが、セットで語られたのです。切り離すことのできない事柄だからです。そのどちらか一方だけで、人間の救いとはなりません。
2人のマリアは<恐れながらも大いに喜び>、急いでそこを走り去ります。彼女たちは、告げられた出来事が自分たちの理解を超えるものだったので、恐れずにはいられませんでした。神が惹き起こし給うただならぬ出来事、と直感したのです。しかしそれは、人間を絶望から引き上げる神のみ業です。主イエスは死者の中から復活された! 神が、死に対してみ力を発揮された。だから、恐れつつ、同時に大いに喜ぶのです。
そのようにして、走って行くマリアたちの行く手に、既に復活の主が立っておられます。そして、主イエスの方から声を掛けて下さいます。<「おはよう」>、と。この言葉の原意は「喜べ!」です。「恵み」と語幹が同じであり、神の恵みを受けて喜ぶことです。ナザレの少女マリアが、受胎告知の際受けた、<「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。>(ルカ1 : 28)、との挨拶と同じです。
主イエスもマリアたちに、<恐れることはない>、と告げられます。復活の主が、平安を約束されるのです。また、「ガリラヤへ行け。そこでわたしに会える。」、と言われます。主イエスは、伝道活動の大部分をガリラヤで行われました。ガリラヤについては、併せて読んだイザヤ書が伝えています。<異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。/暗闇に住む民・・・、死の陰の地に住む者・・・>とあるように、イスラエルの民に軽蔑されていた、辺境の地です。異邦人の地と見做されていたこの地が、主の復活によって新しく開始される伝道の、全ての民に福音が宣べ伝えられる出発点となる、と言うのです。
弟子たちとしては、主イエスの十字架の死が救いへの道であるとは考えられませんでした。十字架の死は敗北であり、夢も希望も打ち砕かれた、と思っていました。従って、主イエスの十字架の死と、次に続く復活の予告を受け止めることなどできませんでした。けれども、主イエスは復活されました。私たちは、神の為し給うこの不思議な、しかし、恵みに満ちた大いなるみ業を、心からの恐れと大きな喜びを以って受け止めたい、と思います。「あの方は復活された」。ここに、私たちの希望と喜びの理由と根拠があるのです。

