2010年6月27日

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「今はどんな時か」

説教要旨( 6月27日 朝礼拝 )
イザヤ書 第8章23b~第9章6節
ローマの信徒への手紙 第13章11~14節
倉橋康夫

 パウロは、本日の個所冒頭で、<更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。>、と言います。「あなたがたは、時を知っている。」、「時を弁えながら生きている。」、と言うのです。この「時」という字は、神のご計画による時を指す場合に用いられることが多いのです。キリスト者は、神のご計画の中にある時を弁えつつ、生きています。聖書がここで意味しているのは、人間の救いに関して、「今はどんな時か」ということです。そこで、それは、<あなたがたが眠りから覚めるべき時>である、と言います。
 ここで、思い起こさせられるのは、エフェソ書 第5章14節cです。
 <「眠りについている者、起きよ。
  死者の中から立ち上がれ。
  そうすれば、キリストはあなたを照らされる。>、とあります。
 「眠りについている者」と「死者」とを同じに見て、眠っている者とは、死んでいるような者だ、滅びに身を任せている者だ、と言います。しかし、そこから立ち上がる時が来た、主キリストが来られたからだ、と言うのです。主キリストの光が明るく照らしてくれる、と。
 併せて読んだ、イザヤの預言は、救い主の到来を告げている、とされています。
 <闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。>、と告げられます。正に、救い主の到来によって、闇に閉ざされ、死の力に抑え込まれているような人々に、救いの光が射し、希望の光が齎される、との預言です。
 このロマ書において、<あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。>、と言われているのも、この主キリスト・救い主が既に来ていることを指しています。主イエス・キリストは、この地上に来られた。滅びに至る眠りの生活を続けるべきではない、眠りから覚めるべき時に至っているのだ、とパウロは言います。

 この主キリスト・救い主が既に来られた、ということに、時の中心、時の原点がある、と言うことができます。時を知る、とは、何よりも、この「時の原点」を知る、ということです。私たちの救いにとって、決定的な意味を持つ時を知ること、に他なりません。パウロが、<あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。>、と言う時、第1にそれは、主キリストが来られ、既に救いのみ業を成し遂げられた、そのような時の中にいる、ということを知っている、という意味です。
 私たちは、既に、主キリストの救いを受けている、罪赦され神の祝福に入れられているのです。この幸いを知る、ということが、今がどんな時であるかを知る、ということに他なりません。
 そして更に、パウロは、<今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているから>、と言います。「救いはもっと近くに(ある)」、と。このことは、主キリストの再臨の時に近づいていることを意味する、と考えられます。「信仰に入った頃」とは、主キリストの救いに入れられた時を指し、更に、「救いは近い」と言います。この場合の「救い」とは、信仰に入った時の「救い」と区別されます。ここでは、「救いの完成が近い」という意味でしょう。ヘブライ人への手紙 第9章28節に、<キリストも、・・・、2度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。>、とあるのと同様です。ここで示されているのは、「今はどんな時か」知るとは、主キリストの再臨を待つ今の時を知ること、ということです。
 この今という時を、私たちは主キリストによる救いを味わいつつ、喜びと感謝の内に、そして、希望に満ちて主の再臨を待つ時として生きることが許されているのです。

2010年度

あの方は復活された
近くにおられる神
偽りのない愛
祝福を祈る
すべての人と平和に
子や孫たちにも教えなさい
復讐からの解放
聖霊の証印を受けて
寄留者
良心に従って
愛は律法を全うする
神の子イエス
今はどんな時か
主キリストを身にまとう
あなたは神に出会う
あなたは何者か
我らは主のもの
愛に従って歩む
神の国は義と平和と喜び
主こそ神、ほかに神はいない
神のみ前における確信