「あなたは何者か」
説教要旨( 7月 18日 朝礼拝 )
詩編 第95編 1~ 3編
ローマの信徒への手紙 第14章 1~12節
倉橋康夫
ロマ書の第14章以下の部分は、教会生活に集中して語られます。最初に、<信仰の弱い人を受け入れなさい>と勧め、<弱い人は野菜だけを食べている>、と言います。どのような考えに基づいた菜食主義者かは、不明ですが、食べ物に制限を設けることによって、自分の信仰が他の人より優れている、と考える人のことです。また、少し先の5節に、<ある日を他の日よりも尊ぶ人>、という表現があります。或る人は、「自分は、日曜日にきちんと礼拝に出ているから、間違いのないキリスト者だ」と考える人を当てはめています。食べる物を制限してそれを守る、教会に行くべき日を遵守するという生き方です。しかしそこには、一種の律法主義があり、本末転倒が起こっています。毎日曜日、きちんと礼拝に来るから間違いのないキリスト者だ、と言うのではなく、間違いなくキリスト者であるから、主の日には礼拝に集まって来るのです。
けれども、パウロは、決して弱い人を批判し、追い詰めよう、と考えているわけではありません。彼は、<信仰の弱い人を受け入れなさい>、と言います。そして、<その考えを批判してはなりません>、と言うのです。
ところで、パウロは、人間関係における不幸な事態について、軽蔑したり裁いたりすることの問題を指摘しています。<食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。>(3節)、と。
<食べる人>とは、食べ物に囚われない、自由に考える人のことです。反対に、<食べない人>とは、食べ物を制限し、野菜だけしか食べず、肉を食べない人のことを指しています。原理・原則に従って生きる人です。この両者には、対立が生じ易いのです。食べる人は、食べない人を軽蔑するし、食べない人は、食べる人を裁く、と言います。食べる人・自由な人から見るならば、原理・原則に縛られる生き方は愚かに見えるでしょう。一方、食べない人つまり原理・原則に従うことを大切にする人からするなら、食べる人はいい加減な人間に思えるのです。このようにして、軽蔑したり、裁いたりすることになります。けれども、パウロは、そうであってはならない、と言います。軽蔑し合い裁き合っているようでは、教会が成り立たない、主キリストの体としての豊かさを失うことになるからです。
パウロは、<神はこのような人をも受け入れられたから>、と言います。<このような人>とは、事柄そのものから考えるならば、食べる人・強い人と食べない人・弱い人の双方でしょう。そして、私たちの現実・実態から言っても、両方が混じり合っているのです。
そこでパウロは、<他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか>(4節a)、と問いかけます。あなたがたが裁く相手は、他人の召し使いであって、あなたの召し使いではない、と言うのです。つまり、神の召し使いである者を、あなたは自分が主人であるかのように裁くのか、ということです。召し使いとは、家僕のことです。教会に集められたひとり1人は、神の家の召し使いです。
併せて読んだ詩編 第95編1 ~ 3節は、何ものをもっても換えることのできない、比類なき主なる神に対する讃美です。唯一の主なる神を、限りなく褒め称えています。この方が自分の主人であることを、喜び謳っているのです。この唯一なる神を主人としている兄弟姉妹に対して、まるで自分が主人であるかのように振る舞うことは許されません。この主人の守りと導きの下に、教会員ひとり1人が夫々の信仰の歩みを進めます。この信頼関係によって、教会は立つのです。「あなたは何者か」 あなたが、誰かの主人であってはならないのです。

