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尊い神の秩序

説教要旨(9月9日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 2:1-4
伝道師 新佐依子

 あるひとりの人がどういう人であるかということは、簡単に一言で言い表せるものではありません。同じ人であっても、その場の状況によって振舞いや言動は変わってきます。しかし私たちは、ついそういうことを忘れて、自分の知っている一面だけから「あの人はこういう人だ」というイメージを作り上げてしまい、それによってその人全体を判断してしまうということがあります。そうなると、例えば話をする前から「どうせあんな人には言っても無駄だ」「あの人は付き合いにくい人だから」などと決めてかかるというようなことにもなりかねないわけです。その結果、お互いの関係を壊してしまったり、軋轢が生じてしまったりということにもなってしまいます。
 なぜそんなことをしてしまうのかというと、私たちは自分が大きな関係性の中で生きているということが、なかなか見えないためではないかと思います。私たちは皆、必ず誰かと関わり合いながら生きています。そして、自分と関係のある人が、また別の誰かと関わり合いを持っていて、結果的に大きな関係性を作り上げているのです。
 しかし実際に私たちの目に見えるのは、せいぜい自分のまわり数メートルのことです。そしてその数メートルの情報だけから一人の人全体を判断してしまうために、「あんな人だとは思わなかった」などということも起きてくるわけです。今日のヤコブ書にある、見た目で人を判断してしまうというのも同じことです。それに対して聖書は「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(4)と言うのです。
 私はここで「自分たちの中で」と言われていることに大切な意味があると思います。私たちは神様によって召し出され、神様によって集められた神の民です。神様は私たち全体を、ひとつの民として終わりの日に向けて導いておられます。そのために神様は、イエス様に結ばれた私たちを、神様だけが全体を見通せる秩序のもとに置き、神様だけが見通せる全体の関係によって結びつけておられるのです。
 聖書は、終わりの日に私たちはキリストのもとに一つにまとめられる、と言っています。イエス様の十字架の死は、私たちを一つにまとめるための御業です。それなのに私たちが、自分に見えるところだけから勝手に判断をしてそのまとまりを乱してしまったら、あのイエス様の十字架の死を踏みにじることになります。そんなことがあってはならない、と聖書は言うのです。
 人間の知性は、物事をバラバラにして分析するのは得意ですが、バラバラのものに関係性を持たせてひとつの全体を作り上げることは大変苦手です。解剖学者の養老孟司さんは、言葉を使って物事に名前をつけることで、本来は連続している自然がはっきりと切り分けられて見えてくる、とおっしゃっています。人間の言葉は、本来関連しあっているものをバラバラに切ってしまう性質があるのです。これは神様の言葉が混沌に秩序を与えるのと正反対です。
 「あの人はこういう人だ」と言葉で言い表すことは、その人を尊重する上で必要なことではあります。しかしそれを絶対化して、それでその人全体を判断してしまっては、神の民の秩序を乱すことになります。私たちは自分の言葉ではなく、神の言葉によって生きるものです。そもそも私たちは、目の前にいる一人の人のことを「こうだ」と言えるほど分かってはいません。でも私たちは分からなくても、神様はすべてご存じです。そしてその上で、私たちを互いに関わり合いながら生きるものとしておられるのですから、もうそれでいいのです。
 神様は私たち全体を、ご自分の「ひとつの民」としてご覧になっています。ですから私たちの間にある秩序は、尊い神の秩序なのです。そのことを覚え、私たちは互いに「知り尽くすことのできない者同士」として尊重しあい、ひとつの民へと完成させられていきたいと思います。