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天からの命綱

説教要旨(2月1日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 2:23-27
牧師 藤盛勇紀

 「権威」を巡る、イエス様と宗教的権威である「祭司長たちや民の長老たち」との間のやり取りです。イエス様がガリラヤの地で活動していた早い段階で、このユダヤ教当局は、イエスの業は「悪霊の頭ベルゼブルの力による」と断定し、どのようにイエスを殺そうかと相談し始めています。一方、民衆は混乱しながらも、多くの人々が従って来ました。そしてついにエルサレムの都に入ったのです。そこで、権威の頂点にいた人々がイエスを尋問します。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。彼らも大きな決意をもって問うています。決着をつける時が来たのです。
 ユダヤ人にとって律法学者たちや民の長老たちは、民衆の指導者で権威者です。人々は普段から彼らを尊敬し、その教えに従って生活していました。ただそれは、彼らが教える律法(口伝律法)にがんじがらめにされた生活でした。ところが、イエス様の教えを聞いた人々は、この方は明らかに律法学者たちは違う、今まで知っていたのとは全く違って、自ずと人を従わせる権威に驚いたのです(7章)。
 宗教指導者たちは、そのイエスの権威を問題にします。彼らは自分たちこそ権威だと思い込んで、イエスを問うのです。ところが何と、イエス様の方が彼らを問います。「では、わたしも一つ尋ねる。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。祭司長たちの答えは、「分からない」です。答えてしまったら、自分たちが今立っている権威ある立場が瓦解してしまう。もしヨハネが宣べ伝えていた悔い改めの洗礼が天からのものだと認めたら、イエスをメシアだとも認めなくてはならなくなる。かといって、ヨハネを否定したら群衆が黙っていない。彼らはイエス様の真の権威の前にただ揺らぐしかありません。イエス様の権威は上からの、本当に人を問う神の力です。
 もし、人が神の前に引き出され、神から問われたとしたら、どんな言葉を語れるでしょうか。何の言葉も無いのではないでしょうか。自分が権威であるかのうように、神を問う者だった。不遜にも「神よ!お前は何をしている!」といい気になっていた。自分は問う者だ、神が私に答えなければならないのだと。
 そして、自分が神に問われているなど、これっぽっちも考えない。自分がこんな状態、聖書が言う「罪」にあるとは、自分自身が神から問われるまで気づかないのです。エレミヤは言いました。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」。人間はそれを知らない。真実な医者から指摘されなければ分からないのです。
 しかしイエス様は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。神から離れてしまった病人である罪人を招くために、御子は世に来られました。洗礼者ヨハネは、この方が来られるから備えをせよと民衆に呼びかけ、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。神が来て問われるのだから、あなたの罪の中から神に向き直って、神に応えて、立ち帰れ!
 イエス様が中風の人を癒やされた時に言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と。主は人の罪を明らかにし、言い逃れようのない者であることを思い知らせる方ですが、同時に、その「罪を赦す」権威です。私たちは神の前で問われたら、ただ惨めな自分に震えるしかありません。自分の醜さを覆い隠せるような何ものもない丸裸です。しかし、本当に神の前にも人の前にも丸裸にされ、晒し者にされ、人間の権威の前に罵られ嘲られ、真に惨めな者とされた上に、神の裁きを受けて死なれたのは、御子イエスでした。
 私たちはこの方のもとで、権威ある言葉を聞くのです。「あなたの罪も咎も、恥も恐れも、全て私が引き受けた」。この地上には本当の立つ瀬も無く、落ち着く場もない私たちです。しかし私たちは、私たちのための天からの権威、天からの命綱である方に結ばれて、天から地に吊り降ろされています。天に属する者、天から遣わされた者として、どこにいてもどんな状況でも、「ああ、主よあなたはここにもおられたのですか」と知って生きるのです。