主の奇蹟の時

説教要旨(11月26日 朝礼拝)
ヨハネによる福音書 2:1-12
牧師 星野江理香
 

 これはいたってシンプルな奇蹟物語ですが、そのわりに、すぐに呑み込み難い点が少なくとも三つはあります。
 その一つは、祝宴の招待客であるはずの主「イエスの母」がぶどう酒の不足をいち早く知って対応しようとしていた点です。また二つ目は、11節に「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた」と記されている点です。というのも、この「しるし」…水をぶどう酒に変えるという奇蹟が、主イエスの最初の奇蹟であるなら、何故、主「イエスの母」は、確信をもってぶどう酒の不足を主に知らせたのでしょう。また、主が洗礼を受けられた時の御父なる神様のみ声や聖霊の出現、他の福音書の豊漁の奇蹟などはどうなのでしょう。それとも、この福音書の記者が勘違いをして「最初のしるし」と書いてしまったのでしょうか。しかし、宗教改革者ジャン・カルヴァンも指摘しているように、天使たちが救い主の誕生を羊飼いたちに知らせたことも不思議な星が東の国の学者たちを導いたことも、聖霊が目に見えるように洗礼を受けた主イエスの上に降ったことも奇蹟ではあるけれど、明らかに主ご自身が手をくだした奇蹟とは言い難いのです。そうではなくて、主イエスご自身が手を下したことが明確な奇蹟の最初である、ということなのです。ですから、これこそが、主イエスの公のご生涯で、主自らが、主イエスが御父なる神様の真のみ子であるご「栄光を現わされた」最初のものであったと私たちも確信したいのです。そして、そこからすると主イエスの母の、謎めいた言葉は、私たちが、何等かの人生の窮地に陥った時、神様に助けを求める祈りに近いものだったと受け止めていいでしょう。
 そして三つ目は、一見冷酷な言葉にさえ感じさせる、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という主のお言葉です。主は、その母との血肉や情の関係をここで一旦白紙にしているのです。
 それというのも、教会は皆が皆、主にある兄弟姉妹だからです。主を長子とする兄弟です。そこで優先されるのは地縁・血縁ではなく聖書とその教えであり、教理と信仰告白であり、それら全ての中心においでになる主イエス・キリストであり、また主が自らお示しになる御父なる神様とその御旨です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と主が仰ったのは、そういうことです。だからこそ、主は「わたしの時はまだ来ていません」と続けられたのでした。何ごとも御父なる神様のみ旨によるというのが、主イエスのご返答の意味なのです。つまり、神様の「救いの恵みのみわざの時」が始まるのは、けっして人間の思いや人間的関係のゆえではなく、御父なる神様のみ心からのみ行われることである、という意味がここに込められています。
 また、諦めることなく主イエスに全幅の信頼を置いて、召し使いたちに、主イエスの指示に従うよう求めた主「イエスの母」の姿は、私たちも見習いたいところです。
 一方、主から瓶に水を満たすよう命じられた召し使いたちは、半信半疑で従ったことが想像されます。おそらく彼らは、「こんなことが何になるのか」と考えたでしょう。けれども、それは、救い主の顕現のための最初の奇蹟が「時が満ちて」行われたことが明らかにされるためでした。またそれは、御父なる神様が時空を超えた永遠なる御方であり、且つ「時の支配者」でもおありになることを私たちに示しています。私たちには「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されてい」ません。でも、それぞれに御心にかなう時があって、私たちはその時を神様に…主イエス・キリストに全幅の信頼を置いて待つことを許されています。ですから私たちは、常に希望を持って主に従って行くのです。
 どんなこの世の楽しみも人間の偉業も、苦しみや痛みも、世の時の終わりに向かって流れ、吸い込まれ消えゆくことでしょう。けれども、私たちは、神様に憶えられ、そして主イエス・キリストの十字架とご復活のみわざによって、永遠そのものであり給う神様の命に生かされています。主に結ばれている私たちには、永遠はすでに始まっているのです。