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今週の説教

祝福と賛美の交感

説教要旨(11月27日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 10:14-22
牧師 藤盛勇紀

 「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と、パウロは改めて結論を述べ、「わたしの言うことを自分で判断しなさい」と勧めます。すでに言われたように、そもそもこの世に偶像の神などいません。人が作ったモノや、人間の観念が生み出した何かがあるだけです。まともに相手にすることはなく、「避ける(逸らす、逃げる)」だけで十分なのです。ただ、それが簡単にできない人もいます。その人の弱い良心が、偶像のことを気に病んで、霊的な悪影響を自分で自分の内に引き込んでしまうのです。人が勝手に偶像を作るように、人の心が勝手に偶像に意味を与えて、独りで恐れたり怯えたりする。みな人間の勝手なのです。問題は、偶像そのものではなく、自分なのです。
 偶像には何の意味も力もありません。だからパウロも、取り立てて「偶像とはこのように戦え」などと指図することはありません。、意味の無いものに対しては、正面から向き合う必要はなく、自分の思いをそこからずらすだけでよいのです。正面から向かい合って、がっぷり四つに組み合うと、それが自分の心の真ん中に入ってしまうからです。
 「偶像に備えられたものを食べてもよいのか」といった不安が出て来た時は、すでに踏み込まれています。偶像を避けようとする余り、逆に偶像に傾いてしまっているのです。「肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(8:7)。私たちがなすべきは、偶像に心を向けるのでなく、真の神を神とすること。あなたの内におられる主に思いを向け、心を傾けるのです。
 偶像礼拝の話だったのですが、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と、唐突に聖餐の話になります。。
 杯はキリストの血、パンはキリストの体です。この聖餐と偶像と何の関係があるのでしょう? 偶像はただのモノ。意味は無く力もありません。聖餐のパンと杯も、それ自体はモノですが、聖霊の働きが、私たちをキリストの体と血に与らせます。私たちは身をもってキリストの命と祝福を味わい、自分の内に確かめるので、それは私たち自身の内、腹の内から出る賛美となるのです。生ける一人のキリストの体に、生きて与っているから、私たちは一つになって、声をそろえ、心を一つにして賛美するのでしょう。
 「賛美」という言葉はそのまま「祝福」とも訳されます。祝福と賛美は交換可能です。神の恵みに触れられ、祝福を得て、私たちの内に賛美が起こされる。これは生きた触れ合い、行き交いであり、命の交わりです。祝福のあるところに賛美がある。それは恵みと感謝との関係も同じです。
 パウロは言います。「わたしは何を言おうとしているのか」。「偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか」。偶像も偶像への供え物も、何か意味を持ってしまうのは、その人の独り相撲、独り決めです。主から離れて独りになってしまう悲惨です。だから「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」と言うのです。キリストの体に結ばれている幸いの中で、いったい誰が無意味な偶像や供え物に心を向けて、恐れたり怯えたりするでしょうか。恐れを起こすのはむしろ悪霊の働きです。それは無視するか、かわせばよいのです。取っ組み合うのでなく、主に依り頼むことによって強くなることです。わざわざ攻めるのでなく、神の武具を身に着けて、自分の内に入れないことです。積極的に取り組むのは、悪霊の仲間になるようなものです。
 主のみ言葉と霊が、語りかけ導いてくだささっています。み言葉を聞いたなら、もう心を頑なにしてはなりません。主は妬むほどにあなたを愛しているのです。そこには偶像の入り込む余地などありません。