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人の闇を貫く神の言葉

説教要旨(9月13日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 27:1-14
牧師 藤盛勇紀

 イエス様の最後の夜の出来事が続いています。最後の晩餐の後、ゲツセマネで主は血のような汗を流して祈られました。しかし、共にいた弟子たちは「目を覚ましていなさい」と言われながら眠りこけてしまいます。そこにイエス様を捕らえに来た一群が現れ、弟子たちは皆、主を見捨てて逃げてしまいました。ペトロは大祭司の屋敷に潜り込みますが、結局、「あの人を知らない」と三度主を否認します。その時鶏が鳴き、主の予告を思い出したペトロは、外に出て激しく泣きます。
 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちはイエス様を殺そうと相談し、総督ピラトのもとへ連行します。その裁判の場面に挿入されているのがユダの最期です。ユダはイエス様が罪に定められたのを見て後悔し、「罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯した」と言って、銀貨を返そうとします。しかし祭司長たちは、「自分で始末するがよい」と突き放します。ユダは銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んでしまいました。
 「後悔する」ということを考えさせられます。ユダは自分のしたことを深く悔いました。しかしこの「後悔」は、聖書が言う「悔い改め」とは全く違います。「後悔」とは文字通り「後」(過去)を悔いることです。そこには「前」を見ることも先への希望もありません。
 そう考える時、主が語られた「放蕩息子のたとえ」が思い起こされます。父のもとを離れて放蕩の限りを尽くした息子は、飢えの中で父の家を思い出します。そして、もはや息子としてではなく、雇い人の一人にしてもらおうと帰る決心をします。しかし父親は、息子が用意してきた悔い改めの言葉を聞くより先に、彼をすっかり受け入れ、大喜びで宴会を始めます。このたとえは、放蕩息子が悔い改めた話ではなく、どこまでも息子を愛し、待ち続ける「父」の愛を語る話です。神は、そのような父なのだと。だから私たちは、後ろを振り返って自分を責め続けるのではなく、前を向き、いつでも待っていてくださる父なる神のもとへ帰ることができます。
 ユダも自分の罪を真剣に受け止めました。しかし、彼には「前」がありませんでした。自分の罪に自分で決着をつけ、自分自身で人生に幕を引いてしまったのです。そこには「自分」しかありません。夜が明けようとしている時に、ユダに見えていたのは、神に背を向け、神を見ようとしない人間の闇でした。
 そのような人間の闇のただ中に立っておられるのがイエス様です。ピラトの前で尋問を受けるイエス様に対して、祭司長たちや長老たちは、言葉を尽くしてイエス様を訴えます。それなのにイエス様は、ピラトが不思議に思うほど、黙っておられる。なぜイエス様は口を開かれないのでしょうか。
 このイエス様の沈黙は、神の沈黙のように見えます。神の力が完全に隠されて、主を亡き者にしようとする人間の声だけが、かまびすしく響いています。しかし、本当に神は沈黙しておられるのでしょうか。
 違います。沈黙しておられるこのイエス様こそ、「神の言葉そのもの」です。全くの無力な人にしか見えないこの方を通して、神は全力で語っておられるのです。それは、旧約聖書を通して示されてきた神の約束です。
 イザヤ53章には、「主の僕」が描かれています。見るべき面影もなく、力なく、苦しみを受ける僕です。そして、「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」と語られます。イエス様は、まさにこの主の僕として、屠り場に引かれる小羊のように沈黙し、捕らえられ、裁きを受け、そして命を取られるのです。
 人間の罪と闇が最も深く現れるその場所で、イエス様は沈黙しておられます。しかし、この沈黙の中に、確かに神の言葉が響いています。人の闇がどれほど深くても、神の言葉を消し去ることはできません。詩編19編が語るように、声そのものは聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てにまで及んでいきます。
 やがて復活された主は、「地の果てに至るまで、私の証人となる」と弟子たちを遣わされます。人間の闇の中で沈黙された主は、復活して立ち上がり、その言葉を世界の果てにまで響かせてくださるのです。