旅の道
説教要旨(9月27日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 10:25-37
牧師 小宮一文
祭司とレビびとが追いはぎに襲われて重傷を負った人の横を通り過ぎたのは律法を守ることによって救いを得るためです。「これを守り行います、だから救え」。通り過ぎた祭司とレビびとにとって神さまとの関係はそのような取引の関係です。「救われないんだったらやりません」「救われるのならやります、本心からではないけれど」。それは本心から出たことではなく偽善です。そしてイエスさまは偽善を嫌いました。
人への親切が巡り巡って自分に返ってくることを「情けは人の為ならず」といいます。情けが返ってくることなど考えていなかったとき、思いがけないことに喜びます。しかし「よし、情けが自分に返ってくるために人に善いことをしよう」となるとき、それは善いことをしたくてするのではありません。見返りのために仕方なくしています。善いことに励んでも、それはだれかを助けたくてしたことではありません。したくないことをしているのでそれはいつか「わたしはこんなに自分の身を削ったのだ、だからその報いを返せ」という呪いになります。
サマリア人が襲われた人に駆け寄ったことは「助けたくてした」ことです。自分に見返りが返ってくることを求めてではありません。それは別のことを示しています。それはこのサマリア人にとって神さまとの関係が取引・報いではない何かであり、またこの人は神さまを「律法を守ったら救う」というような神とは思っていなかったということです。このサマリア人のふるまいは「神は『律法を守れば救う/守らないなら救わない』というような神ではない。救いたいから救う神だ」ということを伝えています。
強制されてする道徳がおかしいように、良心も動かそうと思って動くものではありません。トミー・アンゲラーという作家の本に『すてきな三にんぐみ』という絵本があります。人びとから恐れられていた三人の強盗がいました。三人の強盗は馬車を襲ってお金や宝を盗んだりします。あるときいつもと同じように馬車を襲って宝を奪おうとすると、一人の女の子しか乗っていませんでした。その女の子はみなしごで、これから意地悪なおばさんのところに行くとのこと。三人の強盗は急にその女の子のことがかわいそうになってしまいました。女の子も「おじさんたちのほうがおもしろそう」と。強盗たちは女の子を大事に抱えて隠れ家に帰りました。お金や宝はたくさんある。でも使い道が分からない。強盗たちは「これで捨て子、みなしごを助けよう」と考えました。お城を買って、そこに国中のみなしごが集まってきました。やがてそれが村になった、という話です。
大事なのは、強盗たちは自分たちのしたことに見返りを求めなかったということです。感謝されたくてしたのではない。罪滅ぼしのためにしたのでもない。したくてした。みなしごを見ているのがつらかったからした。
関連して思い出したことがあります。神戸にあるやくざの山口組はハロウィンのとき、近所の子どもたちにお菓子を配っていました。しかし2020年に中止されました。その理由が「お菓子を配って地域住民を懐柔しようとしている」「やくざのイメージを変えようとしている」から。私は子どもにお菓子を配っているときのおじさんたちの嬉しそうな笑顔が忘れられません。この人たちは見返りを求めたのでしょうか。こうすれば自分たちのイメージが変わり、懐柔できる、と。
「どうせ自分たちのイメージを変えるため、住民を懐柔する目的でしているにちがいない」。そう考えた人にはっきりしているのは、その人たちは取引ベースで物事を考えていたということです。「お菓子を配っているのはきっと見返りを求めてのことだ」。
この人たちは人を好きになるときも利益や見返りで好きになるのでしょうか。「あなたが善いことをするのはどうせ見返りを求めているからでしょう、そうでなければそんなことするわけがない」。自分がそういう見返り人間として扱われたら嫌なはずなのに。
神は人間に見返りを求めたのでしょうか。十字架に向かうイエスさまを見るとそう思えません。