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憐れみの源泉

説教要旨(8月30日 朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 5:1-9
牧師 藤盛勇紀

 「ベトザタ」の池はもとは小さな溜め池だったものが拡張され、イスラエルがローマの支配下に置かれた頃は、ギリシア・ローマの医学の守護神の名を冠した医療施設の池に替えられ、五つの回廊を持つ大規模な施設となっていたようです。たとえ異教の神の名の施設であろうと「溺れる者はワラをも掴む」状態の悩めるイスラエルの民たちは、「水が動く時真っ先に池に入ると癒される」と信じてそこに殺到しました。ですが、健康な同胞たちからは、さぞや背徳者扱いされたことでしょう。
 注目したいのは「三十八年も病気で苦しんで」動けないでいた人に、主が問いかけられた時のこの人の言葉です。せっかく主が、癒しを求めるかと声をかけてくださったのに「はい」でも「いいえ」でもなく、「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。…」と、言い訳のように答えているからです。 
 いったい何故この人は「良くなりたいです、助けてください」と答えなかったのでしょう。それは、おそらく、それ程にこの人が癒されることも真の神さまに救われることも諦めて、すっかり絶望していたからでしょう。異教の神を祀る施設によりすがるほど困窮の中にあるこの人が、この時みつめていたのは、隣人への愛も憐れみもなく、他者を踏みつけてでも競って自分の癒しを求める同胞たちに見る人間の醜さ・弱さ…。また助け手もなく放置され、孤独と無力さの中で全てを諦めていた自分自身なのでしょう。諦めきって、目の前の真の救い主に気づくこと、その癒しのみ手に気づくことすらできなかったのです。
 絶望や諦めは恐いものです。特に健康問題についての諦めは恐いものだと思います。もちろん、頑張れば、努力しさえすれば、問題を克服できると言うのではありません。現代医学でも治らない病気や治療法や原因がわからない病気はあります。でも、諦めることと受け容れることは違います。受け容れることにはその先があります。たとえ受け容れることに耐えがたい痛みや苦しみが伴っても、今を生きて働かれる主が、その傷み苦しみを共にしてくださいます。またその先に目を向けるように導いてもくださいます。
 また、苦しい時に互いを思いやり助け合いをする人への憐れみを持っているのも人間なら、厳しい環境下では憐れみも同情もなく、我先に池に飛び込む苛烈な競争をするのも人間です。時に、人間の憐れみは、気をつけていても人を深く傷つけることさえあります。残念ながら人間の同情や憐れみには限界があるのです。でも、そんな人間の罪深さに絶望して諦めるのか。そうではなくてその罪深さを受け容れてくださる御方を信じて生きることを選ぶのかは、私たちの人生にとって重要な問題なのではないでしょうか。そして、私たち人間の中途半端な同情や憐れみではなく、まことの憐れみの源なる御方にこそ、私たちは希望を置くべきなのではないでしょうか。
 旧約聖書の原語「ヘセド」は、神さまの「尽きない憐れみ」や「とこしえの恵み」と訳される言葉です。そして「ベトザタの池」の「ベトザタ」の元の言葉は、「ベト ヘセド」であるといわれます。涸れた谷にて水を求める鹿の如くに神さまの憐れみを求める心とその求めに応えてくださる神さまの憐れみが表わされているようです。それは唯一人のみ子を十字架の死の犠牲にすることさえ厭わない、徹底した憐れみ、徹底した恵みです。神さまにのみ可能な、神さまを源とする愛から流れ出る憐れみです。
 三十八年も病気で動けず、家族からも社会からも見捨てられ、全てを諦めていたこの人に、今、真の神さまの憐れみが訪れました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。そして主のこのみ言葉を受け容れた時、この人は癒されて立ち上がり、明日への一歩を踏み出したのです。それはまた真の救い主は誰なのかが明らかにされた瞬間でもありました。
 私たちが抱える日々の様々な問題も健康問題も、すぐに解決されるわけでも癒されるわけでも無いかも知れません。でも、それらを受け容れ先に進む時には、諦めや絶望の淵から「起き上がりなさい」と言ってくださる御方が、私たちが願う以上の憐れみを、これ以上ない絶望的な死からさえ復活された主イエス・キリストによって与えてくださり、私たちの行く先を支え励ましてくださるのです。