裏切りを覆う愛
説教要旨(8月2日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 26:14-25
牧師 藤盛勇紀
誰もが知っているユダの裏切りは、様々な問いを引き起こす最大の謎の一つです。この場面は、ある女がイエス様に香油を注いだ出来事とひとつながりです。前の場面で主は、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われましたが、不思議とあまり語られず、むしろ、はるかに多くユダの裏切りが語り伝えられています。
香油を注いだ女もユダも、イエス様の死とつながって表裏一体、背中合わせで、しかも二人は正反対に見えます。この二人が、私たちのために命を注ぎ出してしまわれる主の愛を、それぞれの仕方で映し出しています。
香油の女は主の愛をストレートに受け止め、馬鹿正直に応えてしまいます。何の計算も何の考えも無いので、誰にも理解されません。弟子たちは激怒しますが、イエス様は大いに喜ばれました。誰も理解していないイエス様の死を、なぜか彼女は理解したのです。罪の赦しのために、イエス様はご自分の命を注ぎ出してしまう。その愛に触れられたことは、彼女の馬鹿げた行為から分かります。ルカ7章の「罪深い女」の行為と同じです。
ではユダはどうか。ユダもイエス様の愛が分かっています。しかし、あの女のように真っ直ぐには受け止められませんでした。ユダの行動はイエス様の十字架の死を呼び込むことになります。ユダ自身がそれを望んだのですが、ユダはイエス様を憎んでいたのでしょうか。もしそうだったら、計略が首尾良く行ったとき、彼が後悔したことは謎です(27:3~5)。望んだ通りになって喜ぶはずなのに、ユダは「後悔した」。自分で自分を始末するしかないほどに後悔したのです。
この後、主と弟子たちは過越の食事をします(いわゆる最後の晩餐)。主はその席で言われます。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。
何と希望の無い残酷な言葉でしょうか。ユダはそれほどの悪人だったのか? イエス様はユダを愛しておられます。ユダに対する憐れみと慈しみで満ちています。ただ、ユダはその愛をあの女と正反対のかたちで受け止めてしまい、皮肉な仕方で主の死と愛を映し出すのです。何という運命、何という不幸。「生まれなかった方がよかった」とは、ユダに対する主の愛と憐れみのほとばしりです。「ああ、ユダよ。こんな役回りを引き受けるためにお前は生まれてきたのか。私の十字架の死の道を決定づけた挙げ句、そんな自分の始末を自分でつける。何と憐れな人生か」。
ユダの内心を描こうとした人は数え切れませんが、太宰治の『駆込み訴え』は不思議な作品です。ユダが祭司長たちの所に駆け込んだ今日の場面を描いていますが、最初から最後までユダの独白だけなのです。イエスに対する憎しみと愛の複雑な絡み合いを、意図せず告白しながら、最後の所で言います。「はじめから、みじんも愛していなかった」。
そしていかにも卑しい商人のような言葉を吐きながら、ユダは泣いています。もう自分でも自分が分からない。太宰自身が自分をユダに重ね合わせているのでしょう。ユダも太宰も、どこまでもイエスに心を寄せながら、結局自分で自分を始末することになります。
いったいユダはどうなったのか、救われなかったのか。「分かりません」としか言えません。聖書が語っていないからです。明確なことは、ただ主の愛です。罪を犯すことなく人生を全うできない私たちのために、神の御子が全てを負って死なれた。人となって来られた神が、自分の肉を裂き、血を流し、命を無駄に注ぎ出してしまった、という事実です。ユダもイエス様から召されて弟子とされ、イエスご自身が「使徒」と呼ばれたのです。
主は私たちをも招いておられます。自分でも思いもしない罪を犯して生きる惨めな私たちを、ご自分の血で覆って、「あなたは私のもの」と、ご自分と一つとしてくださいました。その恵みを身をもって味わい確かめる主の晩餐・聖餐に今日も与ります。なぜ主はここまでしてくださったのか。それは理屈では分かりません。ただ、「ここに、このお方の愛がある」としか言いようがないのです。