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今週の説教

はじまりは全て主

説教要旨(9月25日 朝礼拝より)
イザヤ書 5:25-30
牧師 加藤英徳

 社会の一員の私達は誰との関りも持たない生活は送れません。だからその中で自分が周りからどのように見られているのかを気にし、それと同じ位かそれ以上に「あの人はこういった人に違いない」と誰かを判断するのです。
 そんな一方的な誰かへの判断は見当違いな事もありますし、そんな小さなすれ違いからが大きな問題へと発展していき収拾がつかなくなるということもあります。
 元総理が凶弾に倒れた直後、日本中の殆どが彼に同情していました。けれどその後、彼や仲間の議員達のある団体と繋がりが明るみになるにつれその思いは驚きに変わり中には「騙された」と憤りを感じる方もいるのです。そうやって私たちが勝手に思い込むのは人に対してだけではありません。
 福音書に示されるイエス様のお姿の一部分だけを取り上げ、そこにイエス様の全てを閉じ込めようとするのです。そして「神様なのだから」という言葉で神様のなさることに制限をかけようとするのです。
 与えられたイザヤ書で告げられている神様の御姿を前に私たちが感じる思いもその表れです。さて、「それゆえ」で始まる与えられた箇所が告げているのは「罪」を犯す人々の姿にお怒りになった神様が示される災難の数々です。与えられた箇所はそんな神様の激しいお怒りが「山々を震わせ」「民のしかばねは芥のように巷に散った」と記します。神様のお怒りは彼らの住んでいる地に地震を起こし彼らが作った建物は一瞬で破壊されるのです。直前までの生活は一瞬で吹き飛び、後に残るのは命を落とした仲間の亡骸であり、まるでそれは塵のように無残に散るのです。人間の力ではどうすることも大地の揺れに彼らは神様の激しい怒りの現れを感じ取ったのです。
 与えられた箇所はその直後「しかしなお主の怒りはやまず御手は伸ばされたままだ」と告げその後も続く神様のお怒りを記します。
 それは隣国の攻撃となって彼らに降りかかるのです。それは神様が旗を上げ合図を出し口笛を吹いて呼び出した事によって速やかにやって来る、それも疲れ知らずよろめきもまどろみも眠ることもなく獅子のように襲ってくるというのです。
 ところでそれ程の神様の御怒りは理不尽にイスラエルの人々に示されたのではありません。「罪」に「罪」を重ねるイスラエルの人々に当然のこととして示されました。ですがそのようにお怒りになる神様と向き合う私たちは、神様の当然のお怒りを前に「なぜ」と疑問を抱き、或いは「何もそこまでしなくとも」や「神様がこんなに厳しい方だとは思わなかった」とその様子に不満を抱くのです。
 犯した罪にお怒りになる神様の御姿に不平や疑問を抱く時、そこで明らかになるのは自らの思いの中に神様を閉じ込めようとする私たちの姿です。神様に「罪」を犯しそこから抜け出せない私たちの現実です。その先に残されているのは神様との関係が絶たれた暗黒の未来だけです。
 ですがそんな「罪」にまみれ暗黒の未来を待つしかない私たちがその中に留まっている時、神様はその状態を放っておかれません。
 放っておかれないからこそそれを前に不満を抱くほどに真剣にお怒りになるのです。そのお怒りは神様の私たち対する二心ない思いのあらわれなのです。だからあのようにお怒りになりながらそれでも罪の中にある私たちをお見捨てにはならないのです。 
 その御姿こそ神様のが私たちに示される「愛」の現れなのです。
 だから、その方は私たちのところに独り子イエス様を遣わしてくださるのです。そして私たちの罪を背負わせ十字架におかけになるのです。神様の私たちに向けられた思いはそこまでの事をする。だからこそイエス様は「着飾ることなく向合いその恵みに満たされる」ように「父よ」と祈りなさいと言われるのです。