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今週の説教

霊の賜物

説教要旨(1月22日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 12:1-11
牧師 藤盛勇紀

 「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と言い、霊的賜物の例も列挙されますが、霊的賜物一般の話ではありません。「あなたがたがまだ異教徒だったころ、…ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」と想起させながら言います。「だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし」、「聖霊によらなければ、だれも「『イエスは主である』とは言えないのです」。「…とは言わない」、「…とは言えない」とあるように、何を言い、何を言わせる賜物かという問題です。
 この問題は14章まで展開され、「預言」と「異言」の問題となります。異言を語る人たちが礼拝・集会を混乱させ、預言を語る人も、「私は預言する者だ」「霊の人だ」と誇り、思い上がっていた。そんな人たちが混乱の元でした。11章前半で「礼拝でのかぶりもの」が問題になっていたのも、霊的熱狂主義の女性預言者たちの問題があったからでした。霊的な賜物についての混乱が、礼拝を混乱させ、深刻な問題となっていました。しかし「神は無秩序の神ではなく、平和の神」です(14:33)。
 「まだ異教徒だったころ」のことを思い起こさせているのはなぜでしょうか。「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」と言うように、「ものの言えない偶像」との関係で、「霊的な賜物」を考えようとしているのです。偶像は、「ものが言えない」ものです。私たちに語りかけることはなく、人に自らを啓示することもないものなのです。
 かつてこんな偶像のもとに「誘い」「連れて行った」力は、「悪霊」と言われます(10:20)。悪霊は言わば悪魔(サタン)の手下のような存在で、人間を神から引き離そうする力です。悪魔は神によって滅ぼされる自分の運命を知っているので、神がこよなく愛する人間を道連れにしようと力を発揮します。そんな悪鬼的な諸力が「悪霊」と言われます。
 パウロは、そうした悪魔的な様々な力に惑わされて混乱していたことを思い起こさせるのです。古代ギリシア文化にも、最高の真理は狂気の中に現れるといった思想があり、教会も影響を受けました。そうした類いの霊的現象は、神の霊の働きの表れではありません。だから言うのです。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。
 「イエスは神から見捨てられよ」などという恐ろしい言葉が教会の中で聞かれたことは、霊的熱狂の混乱ぶりを垣間見せます。それに対して、「イエスは主である」とは教会の信の最も短い要約で、信仰告白の中核です。ただ口に出すだけで意味があるわけではありません。告白は、心で信じていることが表され、信じていることが生活になり人生になって行くことです。それは「聖霊によらなければ」あり得ませんし、「ものの言えない偶像」には為し得ないことです。
 「賜物にはいろいろありますが、……務めにはいろいろありますが、……働きにはいろいろありますが…」。「賜物」「務め」「働き」は、それぞれ別のものではなく、霊的賜物の三つの側面です。「務め」とは職務ではなく奉仕です。「働き」は10節にある「力」で、実際に現される効果・作用です。一人一人の様々な働きも、単なる人の能力ではなく、神からの賜物で、それは自己表現や自己実現のためではなく奉仕なのです。それは私たちを用いて働かれる神の「力」の現れです。
 「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださる」のです。聖霊による分配によって、一人一人がキリストにつながって、キリストの体を表して行きます。これは単なる多様性ではありません。聖霊が一人一人に分担させてくださることによる一体です。そして、聖霊が与える口は、まず「イエスは主なり」と言わせ、ここで私たちは一体とされています。