天の国に生きる者
説教要旨(11月2日 朝礼拝)
マタイによる福音書 19:23-30
牧師 藤盛勇紀
前回の「金持ちの青年」とイエス様とのやり取りの続きです。彼はイエス様に問います。「永遠の命を得るために、どんな善いことをすればよいのか」と。神の戒めを守って生きてきた誠実なこの青年が求めていたのは「永遠の命」です。神の命、神と共に生きる天の命。永遠の命に生きること、神の国に入ること、救われることは一つです。そして、「それは人間にできることではない」と主はいわれます。それは、神にのみできることです。
ここでペトロが言います。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。あの青年は、主から「私に従ってきなさい」と言われたのに従えなかった。ペトロは、自分たちはあんな青年とは違うと思ったのか、私たちは何もかも捨てて従って来たのです、つきましては何をいただけるのでしょうか? この傲慢さ、ずうずうしさに呆れます。
ところが、イエス様はペトロをたしなめるのでも咎めるのでもなく、むしろご褒美でも与えるかのように、将来の約束を語られます。なんと弟子たちは、やがて栄光の座に着かれるイエス様から、光栄ある支配権を委ねられるのです。そして、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と、永遠の命を約束されます。
ここでイエス様は唐突に、「新しい世界になり」と言われます。これは、実は「再び生まれる」という言葉です。再生の時、世が改まる時、私たちが再生する体の蘇りの時だとも言えます。あの青年が問うた問題なのです。永遠の命を得ること、神の国に入ること、救われること。それは、何度も確認しますが、人間にできることではありません。神がなさることです。あの誠実で真剣な青年は、これが分かりませんでした。だから「私は何をすれば…」という思いから出られなかった。
イエス様はすでに、世が改まる再生の時、私たちが再び生まれる時のこと、その約束を語られました。主はこの地上にあって、天を見ておられたのです。今すでに天にある事実を見ておられる。だから、それを確かに約束することができるのです。
多くの人が、「死んだら天国に行くのかなぁ」と漠然と考えているようなものとは違います。そんな根拠の無い期待、淡い希望ではありません。主が見ておられることを、示しておられるのです。それは、十二人の弟子に「十二部族を治める」と言われるように、一人一人に、主が用意し、与えてくださる命であり、神と共に生きる場です。
それをこの地にある私たちにもたらすために、主は天から来て人となられたお方、命そのものです。だからこの方が、ここにおられるという事実は、すでに神の国がここに来ていることなのです。イエス様がこの地上で告げ知らせたことは、「神の国は来ている」でした。道であり命であり真理である神の子イエスにおいて、神の国は来ています。この方と結ばれた人は、すでに神の国に生かされています。そして、すでに新しく創造された者であり(2コリント5:17)。「神から生まれた者」なのです(1ヨハネ5:1)。
この方に結ばれた者にとって、地上で経験する死は、地上で役目を終える体との分かれです。復活の主の霊が私たちの命となっているので、私たちは死なないのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と主は言われました(ヨハネ11:25~26)。信じますか? 先に召された先人たちは信じました。
体はこの地上で塵に帰り、霊は与え主である神に帰りました。この地上を歩んだ時に、新しく造られ、キリストと共に復活して、地にありながら天に属する者として生かされていた。すでに神の国に入れられていたのです。
だから、あの青年のように「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのか」とか、何をすれば天国に入れるか、などと考えたり、悩んだりする必要はありません。悩んだところで、私たち人間にはできないのですから。ただ、私たちを造り、愛しておられる神ご自身がそれをなさいます。だから「恵み」なのです。