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心根のほども知り抜く

説教要旨(7月14日 朝礼拝)
ヨハネによる福音書 2:23-25
牧師 星野江理香

 この箇所は短いながら心穏やかでいられないみことばが語られています。「多くの人がイエスの名を信じた」、つまり「多くの人」が主イエスを信じたのに、その人々を主イエスは「信用されなかった」というのです。
 もっとも、私たちの場合を考えても、「主イエスこそ救い主」との信仰を与えられた時、その主が私たちを信用してくださるかどうかなど考えてみたことがあったでしょうか。その時には、自分が主を信じられる否かというだけで精一杯だったのではなかったでしょうか。まさか、私たちを救いに招いてくださった主イエスが、私たちを信用されないなんて、爪の先ほども考えてはいなかったことでしょう。また、チョっとしたきっかけで教会から足が遠のいてしまう、信仰を捨てようとするような私たちの何処をもって、私たちは主イエスに、神様に、「私を信用してください」と言うことができるでしょう。
 一方、私たちが知る主イエス・キリストは、私たちの不完全な、貧しい信仰を拒絶される方ではありません。たとえば、ローマの百人隊長はけっして百点満点の信仰者ではなかったはずですが、それでも主は彼を「これほどの信仰を見たことがない」と喜ばれました。また、長年出血の止まらない病気で苦しんだ女性が、癒されたい一心で主の衣に触れた時もそうです。女性はそこで回心したわけでも、主が世に来られた目的や救いの御計画を知っていたわけでもありませんが、主は彼女を拒むことなく癒されて、「安心して行きなさい」と元気づけてくださる憐み深い御方です。それなのに何故?と私たちは不審に思うのです。
 そこで、再びこの箇所を注意して見てみましょう。確かに様々な学説はあるものの、ここで主イエスが「信用されなかった」人々というのは、「しるし」つまり主の癒しのみわざ等の奇蹟を見て主を信じたエルサレムの人々であるということ。またこの時点ですでに、十字架のご受難への道を歩み始めていた主イエスを、最終的には「十字架につけろ!」と追い詰めるようになる「彼ら」である、と気がつかされるのです。つまり、主イエスは既に、政治的メシアや自分たちに都合のいい救い主をのみ求め、それゆえに簡単に心変わりをしてしまう人々の、その心根をご存知だったということです。
 各福音書が伝える主イエスは、十字架の死の直前に12弟子の一人イスカリオテのユダに裏切られ、捕縛されてしまいます。またその時には他の弟子たちも主を見捨てて逃げ出しました。あの情熱的に主イエスへの忠実を語ったシモン・ペトロさえ、保身のために主を見捨てます。そんな人間の弱さ、脆さ、危うさを、主は誰よりご存知です。信じているつもり、信仰者であるつもり…でも、自分の心の根っこの部分までは自分自身にさえわからない。そんな私たちであることを主はよくご存知です。ですから、今日の箇所の主イエスは、この時既に、十字架の上でささげる執り成しの祈り…あの祈りに滲み出る感情の中においでになったと考えられるのです。
 しかし、同時に、こうも言えることでしょう。「正しい者はいない、ひとりもいない」と言われる人間の、その心根の醜さ、弱さをもご存知の主イエスは、だからこそ、私たちが人に打ち明けることさえできないような深い悩みや苦しみ、心の痛みや溢れるほどの悲しみまで、知っていてくださるのである、と。そして、聖であってこの上なく正しくおありになる裁き主であると同時に、愛そのものでおありになる御方は、うな垂れて赦しを乞う者を赦し・受け容れてくださる方です。そうしないではいられない方なのです。主を裏切ったと意気消沈するペトロに積極的に語りかけ、彼を再び、そのみ翼のもとに置かれた御方は、十字架の死と御苦しみに耐えてくださるほど私たちを愛してくださったのである、と。そして、私たちは今も、これからも、私たちの心根のほどをまで知り抜いておられる御方の、その深い深い愛のうちに置かれているのだと、気づかされるのです。