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心から赦せるのか

説教要旨(9月21日 朝礼拝)
マタイによる福音書 18:21-35
牧師 藤盛勇紀

 「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」。イエス様の答えは明快です。何度でも赦せです。そして、「仲間を赦さない家来のたとえ」を語られました。話の筋は非常に分かり易いものです。主君に対する家来の借金は1万タラントン。あり得ない額です。それを主君は「憐れに思い」「帳消しにしてやった」。これもまたあり得ない赦しです。ところが、この家来は自分に借金のある仲間を赦しませんでした。この話の焦点は主君の「憐れみ」とその言葉。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。
 主が言われた最後の言葉に誰もが引っかかります。「心から赦す」とは何と難しいことか。赦したいとは思うが、あの人の顔を思い起こすとダメだ。忘れようとは思うが、あの人に会うと…。「心から赦す」。その心を自分でどうにかしようと思っていませんか? 自分の心を探れば、「私はあの人を心から赦せていない」と思う。でも、そのあなたの心はいつになれば「赦せる心」になるのですか?
 主が言われることは単純です。「赦しなさい」。しかも何度でも。誰でも、私には無理だと思う。家来が仲間を赦せなかったのはどうしてか。仲間は「返す」と言うが真実さが感じられなかったのか。彼は自分の罪を認めていないと思われたのか。分かりませんし、問題にされていません。はっきりしていることは、家来は主君から赦し難い負債を全て赦されたこと。それは主君の憐れみだったということです。そして、その憐れみを仲間に向けることが期待されていたということ。
 赦そう、忘れようと努力する。でも本当に忘れることなどできません。ある人から「傷つけられた」とか「あの人のために大変なものを失った」という経験は何度も思い出します。時が解決してくれるわけでもありません。しかし主は、私たちがそんな思いと格闘しながら生きていくことを望んでおられません。空しい思いから解放されて自由に生きることを望んでおられます。私たちに必要なことは、「あの人のこと」をどうするかではなく、「私の主」を知ることです。主は私にどんなことをしてくださったのか。
 家来は借金を帳消しにしてもらったのに、主君の「憐れみ」を自分のこととして経験しなかった、憐れみを知ることがなかったのです。「知る」とは一つとなることです。しかし、家来にとって主君は単に、底抜けに気前の良いお人好しの他人だった。ラッキーだった。
 「私が、お前を憐れんだ」。この方を知った人は、この方と一緒に生きたいと思います。赦しの問題も、私にできるかどうかじゃない。私の心は人を赦せる状態だろかとか、心から赦せているだろかとか、そんな、自分の心を引っこ抜いて見るように自分と向き合うことじゃない。ただ、私の主が言われるから、「主よ、お言葉ですから、赦します」です。できるかどうかなんて、主は問うておられません。あなたの心の状態なんかほっとけ、です。
 そう言うと、「じゃあ私の傷いた心はどうなるんだ?」「私のこのどうしようもない思いをどうするんだ?」と思うでしょう。放っておけばいいんです。あなたの心を自分で何とかしようたって無理。あなたの心を癒やし、慰め、平安を与えるのは、あなたの仕事じゃない。あるいは、「悪いのは私じゃない。あの人だ」「私はあの被害者だ」。そんな思いで生きるところに平安なんかありますか?
 必要なことは主を知ることです。主はあなたの近くにおられます。あなたを自由な神の子とするために、あなたの罪も負い目も全て負って、十字架で死なれました。神に対する負債を全てちゃらにしてくださった。そして、主は命の霊となって、あなたの内におられるでしょう。そして主は、「あなたと一つだ」と言われたではないですか。
 主はこう言っておられるでしょう。「私はもうあなたを完全に赦した。そのために私が命を捨てて本当の死を死んだ。それはもう終わったんだ。それは『あの人』のためでもある。だからあなたも、『赦した』と言ってごらん。 あなたの赦せない思いも、私は知っている。魂が傷ついていることも知っている。でも、あなたの魂を癒やすのは、私だ。だから、今のあなたの心で、『赦した』と決めてごらん。 あなたに必要なものは私が与えるから」。