今すでに実りの時
説教要旨(10月26日 朝礼拝)
ヨハネによる福音書 4:27-42
牧師 星野江理香
 
                食糧の調達に出ていた弟子たちが戻って来て主イエスに食事を勧めますが、主は「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と木で鼻をくくるような返答をされるので、私たちも弟子たちと一緒に困惑してしまいます。
 しかし、そんな弟子たちに主は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と説かれます。食糧が私たち人間の肉の命の維持と活力の源であるように、主イエスを主イエス・キリストたらしめている力の元であり、活力源であり、喜びの源となっているのは、父なる神様のみ心を行うことであり、そのみわざを成し遂げることだからです。そこに主が全力を注いでおいでになることをここで主は明らかにされたのです。
 それゆえに主イエスはこの時、お気持ちを高揚させ、喜びに満たされておいでになります。何故なら、ちょうどサマリアの町で起きていた出来事をご存じだったからです。主イエスとの対話によって気づきを与えられ、心深く慰められ、主がメシアであると知って喜びに突き動かされて町に戻ったサマリア人の女性が、「さあ、見に来てください。…この方がメシアかもしれません」と町の人々に伝えていたからです。またこの主の「種蒔き」のみわざが、その後どう発展するかも主はご存じだったからです。
 もっとも、この時お側にいた弟子たちは、何も理解していません。それが彼らにわかるようになるのは、主の十字架とご復活、そして聖霊降臨の後になります。主イエスが、自分たちの罪の贖いのために来られた御方であること、人間の手では癒しがたいほど自分たちが深い罪のキズを負った罪びとであり、そのためには、主イエスのこの十字架とご復活のみ業が必要であることを知り得る時まで隠された秘儀であったからです。
 しかし、それでも喜びに溢れて気持ちを高揚されている主は、その喜びを愛する弟子たちと共にしたくて言葉をお続けになります。
 「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」。弟子たちはさらに混乱したでしょう。何故なら、未だこの時弟子の誰も各地の伝道に派遣されてはいなかったからです。しかし、主は黄金色に輝く豊かな実り…救いの喜びに輝くたくさんの人々をご覧になっておられたのです。それは主イエスが私たち人間のように時間や空間に縛られない御方だからです。真の神であると同時に真の人でおありになる御方は、サマリアの井戸端にいながら時を越えた将来の弟子たちや教会の姿をご覧になることがおできになります。主の「種蒔き」の結果弟子たちは「自分では労苦しなかったものを刈り入れ」、そのため近い将来弟子たちを派遣することにもなります。それは父なる神様の御心を行い「その業を成し遂げること」が食べ物と仰る主イエスの気持ちをどれほど高揚させ、空腹を忘れるほどの喜びであったことでしょう。そして事実「使徒言行録」に見るようにサマリアの福音伝道は結実しそこに主の群れが形成されます。もとは主イエスが蒔かれた福音の種が大きく結実するからです。それをあの「放蕩息子」の父親のように喜ばれ、その喜びを弟子たちと共にすることを主は願われるのです。
 私たちの先頭を切って種を撒き、護り育み、成長させてくださるのは主イエスご自身です。ですから、私たちは安心して主に用いていただけばいい。日々の私たちの小さなわざ、何気ない言葉、主の日の礼拝を大切にする生活も、主イエスが共にいて用いてくださるなら全てが「種蒔き」であり全てが「実り」につながります。ですから、目に見える結果がすぐに現れなくても、反対に、何の苦労もなく良い結果を与えられた時も、みわざの「苦しみの実り」を喜ばれ、そして私たちが共に喜ぶことを主が望んでくださっているのを覚えたいのです。今日も主は、私たちに呼びかけています。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」。