ホーム | 説教

はたらくキリスト

説教要旨(10月25日 朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 5:9b-18
牧師 星野江理香

 この箇所には少なくとも二つ、謎めいたところがあります。一つは14節の主イエスの言葉「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」の、「罪」が何を指しているのか?という点です。何故なら、厳しい病気の原因が罪にあるというなら、本書の第9章で病いと罪との因果関係について主が言及されていることと話が乖離してしまうからです。そしてもう一つの謎は、安息日に病いの癒しを行ったことを批判された主が「わたしの父は今もなお働いておられる」と仰っている点です。何故なら旧約聖書「創世記」の天地創造物語の終わりに、「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」と記されているのを私たちは知っているからです。そのため、「安息日」は神さまがご「自分の仕事を離れ」て休まれたことを起源に、その後モーセに与えられた「十戒」の第四戒で「安息日を聖別せよ」という約束の言葉を与えられたと誰もが憶えているからでしょう。
 そこで第一の謎についてですが、たとえば、神学教師と当教会の主任牧師を兼務されていたこともある著名な「ヨハネ福音書」の研究者によると、<主イエスが来られたのに、主イエスと主イエスのみわざを拒むこと>が本福音書における罪の概念であると指摘されています。それは確かな専門家の研究成果で、本書全体を見ると、それが妥当な解釈であると判断することができるでしょう。けれど、一キリスト者としての経験から、現代的事柄にそって考えると、この癒された人は「安息日」を守らず休みなく仕事をする生活を余儀なくされていた人…つまり、働き過ぎで体を壊して重い病気になってしまった人ではないか…?と見ることができます。実際に私は、父親の介護と母親の看護を同時に担う状況に陥り、後に厳しい病気で入院を繰り返すようになられた女性や助け手のない中で育児と家事と仕事に努めて重篤な病いになられた女性にお会いしたりすることがありました。皆さん真面目で努力家で一生懸命に生きている、尊敬すべき方たちです。私たちの人生には、そのようにしたくなくても体を壊すほどの無理をしなければならない現実があるのも確かでしょう。でも、それでも私たち一人ひとりは「神さまのお大切」なのです。唯独りのみ子を十字架の死の犠牲にすることも厭わないほと神さまに愛され、大切に思われている存在です。ですから、神さまとの親しき御交わりに私たちが集中するため作られた「安息日」くらいは、たとえ礼拝に出られなくても、神さまを思い、感謝して、できるだけ自分自身を大切にする時間を確保してほしいと神さまは望んでいてくださると理解したいのです。それだから、一見厳しいようですが「さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と、自分を大事にするよう主は声をかけてくださったのでしょう。そしてそう感得する時、私たちの内に、聖霊のお働きにより、主の慈しみの温かさが流れ込んでくるように思われるのです。
 またもう一つの謎については紙面の都合上詳細にいうことはできないので簡単に言えば、まず第一に、律法を作られた神さまは、それに囚われたり縛られたりする方ではなく、むしろ、それを自由におできになる方、その権威をお持ちの御方であるということです。また、たとえば「出エジプト記」の「十戒」の「第四戒」の「安息日」のみ言葉には、創造のみわざを七日目に神さまが休まれたと「創世記」の記載にそって記されていますが、「申命記」の方では、全く触れられていないのです。それはつまり、神さまがこの日に休まれたことを、神さまご自身がさほど重く受け止めておいでにならないということに他なりません。「安息日」は神さまが私たち人間のために備えられたものであることもこの点からわかるでしょう。また著名な神学者も言うようにこの日神さまは創造のみわざを完了してその手を止められましたが、それ以外の創造された世界を統治される仕事まで休まれたわけではありません。神さまは私たち被造物とは異なって、夜も昼もまどろむことなく私たちを護り導いてくださり、この世を統べ治められる御方だからです。だからこそ、ご自身神でおありになり、復活され今を生きて働かれる主イエスは、その御憐れみのもとに今も私たちを護り導いてくださっているのです。