神の恵みによる無償の愛
説教要旨(10月18日 夕礼拝より)
ローマの信徒への手紙 3:21-31
牧師 藤盛勇紀
世界の出来事を見ながら、「これからどうなっていくのだろう」と不安を感じることはないでしょうか。かつては核戦争が人類への大きな脅威と考えられました。今では、AIの想像を超える急速な発展が恐れられています。人間は、新しい力を手にすると、それを必ず使ってしまいます。そこに私たち人間の深刻な問題が現れています。人間は神のかたちに造られました。本来、命の源である神の愛とあらゆる善きものを映し出す存在です。この世界も、神の祝福と輝きを映す舞台でした。ところが人間は神に背を向け、神との命のつながりを失いました。それで世界も本来の意味を失っています。聖書は、被造物全体が、本来の人間、神の子が回復されるのを待ち望んでいると語ります。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあります。聖書が言う「罪」は、命の源である神とのつながりが失われている状態のことです。そのため人は、自分はどこから来てどこへ向かうのか分からないまま、取りあえず生きています。「罪」という言葉は「的外れ」です。どれほど懸命に進んでも、向かうべき的が無ければ、いずれ空しく墜ちておしまい。空しいことです。
しかし神は、そんな私たちを見放しておられません。聖書は「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と語ります。「義とされる」とは、神との関係が結び直されることです。「恵み」は、資格や功績によらず、一方的に与えられる愛です。神は私たちに「戻ってこい」と呼ばれます。そのための道もすでに備えたと。
ヘミングウェイが晩年に繰り返し語った、スペイン人の父と息子の逸話があります。家を出た息子パコを捜す父親は、新聞に「全部赦している。火曜日、ホテルの前に来てほしい」と広告を出しました。と当日、ホテルの前に800人以上のパコがいました。何と多くの人が関係回復を望んでいるか。息子や娘を取り戻したいと願う親が何と多いことか。
ヘミングウェイ自身、父との関係は最悪。父はそれを苦にして自死してしまいます。もう「赦した」と伝える言葉も聞くことはできません。それでも神は生きておられ、私たちを愛しておられます。過ちや失敗を責めて突き放すのではなく、罪や傷に縛られた心を解き放ち、本来の自由や喜び、命の明るさを与えたいと願っておられます。
私たちはときに光に背を向け、自分の影の暗さに生きてしまいます。しかし、影が暗いのは、背後からの光がそれだけ強いということです。夜が暗いのは太陽が消えたからではなく、地球が太陽に背を向けている暗さです。同じように、神はいつも私たちに愛と恵みの光を注いでおられます。無理に振り向かせるのではなく、聖書や人との出会い、交わりを通して語りかけ、私たちが自ら神の方へ向き直るのを待っておられます。
神は今、私たち一人ひとりに、「あなたの罪はもう赦されたのだ。だから帰って来い」と呼びかけておられます。私たちが負うべきものは、神ご自身がすでに引き受けてしまわれたからです。神は、私たちが何のためらいもなく帰ることができる道を開いておられます。
そのために神は、独り子イエスを人としてこの罪の世に遣わされました。罪のないイエス・キリストが十字架で命を注ぎ出し、私たちの罪を担ってくださいました。それを「贖い」と言います。尊い代価を支払って私たちを罪と死の縄目から解放し、神との新しい命に生きる者としてくださいました。この神からの義、すなわち神とのあるべき関係は、イエス・キリストを信じるすべての人に、分け隔てなく与えられます。
神は私たちを真実な子として慈しみ、一人一人を決して失いたくないのです。神が願っておられるのは、私たちが自分の努力で救いを勝ち取ることではありません。神が赦しと救いのために必要なものをすべて備えてくださったので、その「恵み」をただいただくことです。ただいただく。それが信仰です。信仰も恵みもまだよく分からない方も、まずは「神が私にも呼びかけておられるかもしれない」と、心を開いてみてください。この恵みに触れて、「生まれてきて、生きてきて、本当によかった」と言える真の命に、一人でも多くの人が生かされてほしいと願います。