嘲られ罵られるメシア
説教要旨(10月4日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 27:27-44
牧師 小宮一文
ついにイエス様が十字架につけられます。しかしマタイは、非常にあっさりと語ります。「彼らはイエスを十字架につけると」。十字架刑がどれほど凄惨なものだったか、イエス様がどれほど苦しまれか、そうした描写を一切省きます。では何を語ったか。それは、イエス様の周囲にいる人間たちの姿です。ここに登場する人々に共通しているのは、イエスを「嘲り」「罵り」「侮辱する」ということです。兵士たちはイエスを取り囲んで侮辱し、十字架の場でも人々はイエスを嘲り罵ります。そして血祭りに上げられる。詩編22編やイザヤ53章に示された、苦しみを受けるメシアの姿がここに実現しているのです。救い主は、人間の憎しみや怒り、恥、絶望、あらゆる「憂さ」を身に受けて十字架につけられました。
なぜ神はこのようなことを望まれたのでしょうか。それは、人間が自分の苦しみや怒りを、誰かにぶつけずにはいられない存在だからではないでしょうか。私たちも、価値無き者のように扱われたり、恥だとされ、嘲笑されたりする。すると誰でも、怒りや悔しさ、絶望や憎しみを誰かにぶつけたくなります。しかし、それを人にぶつけても、自分自身がさらに惨めになります。相手に依存して自分自身を失ってしまうこともあります。
だから、怒りや苦しみを人にぶつけるのではなく、神にぶつけるのです。十字架のイエス、血まみれのイエスに、自分の中にある最も惨めなものをすべてぶつけるのです。イエス様はでくの坊のように黙って、私たちの内の最も惨めで醜いものを引き受けてしまうのです。そして言うんです。「もういいか」と。「その怒りや苦しさを、他の誰かにぶつけなくて良かったじゃないか。いつでも私にぶつけてごらん。また私の言葉を聞く余裕ができているだろう?」と。「お前にはこれからやることがあるんだよ。さあ、前を向け」と。
この場面で、全ての人がイエス様を嘲り罵る中、ただ一人だけ対照的な人がいます。キレネ人シモンです。シモンはたまたまそこを通りかかっただけでしたが、兵士たちによってイエス様の十字架を無理に担がされました。北アフリカのキレネから過越祭のために巡礼に来た彼にとって、思いがけない災難でした。死刑囚の十字架を担がされ、群衆に囲まれて処刑場まで歩かされる。シモンには怒りや不満をぶつける相手もありません。ただ黙って担うしかありませんでした。
ところがマルコ福音書は、このシモンを「アレクサンドロとルフォスとの父」と紹介しています。この後、福音書が書かれた頃、シモンとその家族が教会の中で重要な働きをすることになっていたからでしょう。どんな経緯かは分かりませんが、あの時、惨めなイエスが十字架につけられるのを見ながら、そこに自分の憂さをぶつけたはずのシモンが、この方を信じた。シモンは自分の怒りや鬱憤をこの男の死にぶつけた。しかしこのイエスは、そのすべてを飲み込んでくれた。シモンも二人の息子たちも、イエスのために命をかける存在になったのでしょう。
今日、三人の方が洗礼を受けました。洗礼は、十字架で死んで、復活して今生きておられるキリスト・イエスと一体とされることを表しています。パウロは、キリストと一体とされた私たちを「キリストの体」と呼びました。キリストが頭、私たち一人一人は、その体の肢体です。それぞれがキリストの手であり足であり、目であり耳なのです。だから、誰かが苦しむとき、キリストの体全体が苦しむのです。私たちの体の部分が痛む時、その痛みを感じるのは「頭」です。私たちが苦しみや痛みを感じるとき、キリスト・イエスご自身がそれを感じ、私たちが喜び楽しむときも、イエスがそれを経験しておられるのです。
イエス様の肉体は今この地上にはありません。しかし、この地上の苦しみや喜びを感じておられないのではありません。主は今、私たち自身の体を通してこの地上の苦楽を体験しておられます。そのために、ご自分の血潮、命を注ぎ出して私たちを贖い、ご自分のものとなさったのです。
この後、私たちは聖餐に与ります。パンとぶどう液を目で見、手で触れ、舌で味わうように、私たちの最も惨めなものを引き受けてくださったイエス様と私たちは、一つであることは確かなのです。