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赦して知る慈しみ

説教要旨(4月28日 朝礼拝)
マタイによる福音書 6:9-12
牧師 藤盛勇紀

 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。罪の赦しを願うことは分かるけれども、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と祈ることに戸惑いを感じてしまいます。人を赦せない自分が確かにいるからです。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とイエス様が言われた、父との親しい交わりを持つあの部屋にいられなくなってしまう。そこで改めて思うのです。祈るとは、まさに神に直面すること、隠しようのない自分を見られてしまうことだったと。
 『植村正久の福音理解』の著者、藤田治芽牧師が、神学生時代に植村牧師の説教を聞いた時のことを記しています。「この年になって、今も自分は人の罪を赦すことができない」と植村牧師が語った。その時の光景が50年経っても鮮やかに浮かび出てくるのだと。
 ペトロがイエス様に問いました。「兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。イエスは言われます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18章)。1回でも難しいのに、何度でも事毎に、完全に赦せと。そして有名な「仲間を赦さない家来」のたとえを話されました。主君は家来に言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。まず無条件の主君の赦しがある。そこで問われています。私たちが憐れみをもって人を赦すことができない時、主はなお深い憐れみと慈しみをもって「あなたも赦してやるべきではないか」と問うておられます。主は願っておられるのです。「私のあなたへの無限の憐れみを知ってほしい」と。
 実際、人を赦すのは難しい。だから戸惑います。人を「赦し難い」と思う時、私たちは自分は正しく、正義に立っています。「なのにあの人は」と怒りと憎しみを抱いています。その時、赦しなど起こりようがありません。「赦せない」と思う時、いつも「絶対に」です。そのままでは神の前に立てない。立とうとしないのです。あの小部屋には居られない。しかしそれでも、部屋に入るのです。そこは茶室のようなもの。茶事に不要な物を風呂敷にしまい、にじり口から頭をかがめて体を入れる。自分を立て上げていた一切を置いて、自分を捨てて入る。神との交わりの部屋に入るのも同じです。
 イエス様はあのたとえを語って、こう言われました。「心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。「心から」赦す! どうやって?
 難しいことではありません。赦せない心があるままで、自分の内を見るのでなく、「主よ、あなたが『赦せ』とおっしゃるから赦します」と決めるだけ。赦してないのに、それはウソになる? そう思う人は自分の罠にはまっています。真剣に自分の魂を見ているだけです。
 なぜ自分の魂を自分で何とかしようとするのでしょうか。イエスは言われました。「自分の命(魂)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。
 私たちの魂を扱うのは、私たち自身ではなく主です。魂の感情は怒り、傷つき、うずいたりしている。そんな魂は「古い自分」です。だから、自分の事ではなく他人事として放っておけばよいのです。そんな自分を自分で見つめるのを止めて、イエスを見つめるのです(⇒ヘブライ12:1-2)。
 赦せない魂はそのままでイエスを見るなら、私の魂は破壊されます。しかしそこから聖霊の取り扱いが始まるのです。聖霊によって神の愛と慈しみが壊れた魂に染み通ってきて、私の壊れてガサついた魂が、神の霊によって、潤されていくのに気づかされるのです。
 「主よ、あなたが言われるので」と、従ってみる。自分ではなく御言葉を掴む。主は「こう祈れ」と言われた、だから「私にできるかどうか」などと思う自分を無責任に放り出します。魂を救い、潤す責任は主にあります。自分の魂に頼るのか、御言葉と主の霊に頼るのか。「こう祈れ」と言われた主は、人知を超えた赦しをもって、私たちを慈しんでおられるのです。